« 八月 2007 | Main | 十月 2007 »

九月 2007

2007年9月29日星期六

羽田-虹橋便就航

 今日から羽田空港と虹橋空港を結ぶフライトが開設される。時事通信の配信記事から。

東京と上海、日帰り圏に=羽田-虹橋線が開設  

羽田、上海・虹橋の両都市空港を結ぶ新路線が29日、開設された。羽田発着の国際定期チャーター便はソウル・金浦線に次ぐ2路線目。東京と上海が日帰り圏となりビジネスや観光の利便性が大きく向上しそうだ。  新路線は日中国交正常化35周年を記念し開設。東京と上海を結ぶ国際線は従来、成田-浦東で運航されてきたが、羽田、虹橋は両都心に近く往復の所要時間は約2時間短縮され約8時間となる。日本航空、全日本空輸、中国東方航空(上海市)、上海航空(同市)の4社が各1日1往復運航する。

 今までの東京-上海便は、成田空港と浦東空港を結ぶフライトだったが、どちらも空港が中心部から離れている。今回いずれも国内線用として使われており、中心部に比較的近い羽田空港と虹橋空港を結ぶフライトを開設することで、東京と上海がより近くなるというふれこみである。
 もっとも、各社のフライトスケジュールを見ると、日帰りは不可能そうである。

日本航空
(9月30日~10月27日)
羽田9:10->虹橋11:20  虹橋12:40->羽田16:30
中国東方航空(9月30日~10月27日)*日本航空とのコードシェア
虹橋8:45->羽田12:40  羽田13:40->虹橋15:50
全日空(9月30日~10月27日)
羽田10:00->虹橋12:10  虹橋13:30->羽田17:20
上海航空(9月29日~10月27日)*全日空とのコードシェア
虹橋9:30->羽田13:20  羽田14:20->虹橋16:30

 どの組み合わせでも、まともに仕事をしながら日帰りをするのは不可能なように見えるのだが、どうだろうか。「看板に偽りあり」という感じである。本当に日帰り可能にするのなら、空港での待機時間を伸ばしてもらうなどしないといけないと思うのだが。何れにせよ、「近くなった」ということをアピールしたいのだろう。
 場所によってだが、頻繁に行き来する人には便利になるだろうし、上海にお勤めの人が東京に里帰りするときにも東京に着いた後の負担が減ることだろう。

 それにしても羽田空港、2002年まで中華航空とエバー航空の台湾便が(外交上の理由もあり)羽田空港を使っており台湾に行くのに便利だったし、国内線の立派な施設から離れた小さな建物から乗ったものだが、台湾より上海への行き来が増えているのは確かだが何とも複雑である。
 あと虹橋空港、「都心に近く」便利と言われているが私が上海にいた頃はタクシー待ちが酷く、公共交通機関もバスのみでバスを乗りこなせないと市内に出るのは難しいと思った。地下鉄2号線が将来虹橋空港まで延長されるとのことだが、タクシー待ちなど少しはましになったのだろうか。それに、慢性的に混んでいるといわれる虹橋空港でスケジュールが守れるのか、気になるところである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007年9月25日星期二

おすもう

 ヨーロッパの話題から一転、相撲の話題に。先日、20年以上振りに大相撲を見に行った。

Img_3651  思い出してみれば昔見に行ったときは蔵前国技館だったので、両国国技館に入るのは初めてである。日本武道館には何度も足を運んだのだが(あそこは「武道」館なので)、両国国技館には意外にもこれまで入ったことがなかったのである。

Img_3704  この日は晴天。青空の下、幟が美しくたなびいている。




Img_3705  幟の中には話題の東国原英夫知事から式守伊之助に贈ったものもある。現・式守伊之助は宮崎県出身。



Img_3671  国技館内には相撲教習所がある。普段はここで新弟子が相撲の基礎や歴史・書道などを一定期間学ぶのだが、本場所中はここでちゃんこを振舞っている。1日2回、先着順でのサービスである。


Img_3675  この日は塩ちゃんこ。1杯200円である。




 ちゃんこを戴いた相撲教習所は前述の通り相撲に関する教育施設であり、所内には土俵があったり(入れないが)、「力士修業心得」が貼られたりしている。それとともに相撲協会に属する全親方の写真が並んでいて私もそれを見ていたのだが、前にいた女性が角界の松平健(または「角界の暴れん坊将軍」)の写真を見て「うわぁ~、やっぱりかっこいい~」と連れの男性に言っていたり、佐ノ山親方と西岩親方の写真が(要は闘牙隆の鶴の写真が)隣あわせに並んでいるのを見て「引退しても一緒でよかったね」と言ったりしたのには思わずウケてしまった。

Img_3757 Img_3758  ちゃんこだけでは足りず、弁当を買うことに。「高見盛弁当」「栃東弁当」(もう引退しているが)など力士の名前がついた「力士弁当」7種類があるのだが、今回は休場中ながら「魁皇弁当」を選択。高菜ごはんや焼き明太子、明太子ポテトサラダなど魁皇の出身地である福岡県にちなんだものだとか。カド番を乗り越えてこの弁当が長い間供されることを願いたい。
 この「力士弁当」、「白鵬弁当」や「琴欧州弁当」もあるのだが、モンゴル料理やブルガリア料理というわけではなく普通の?弁当のようだ。。あと「朝青龍弁当」がなくおしながきにもなかったが、もともとなかったのかあるいは今回の一件でなくなってしまったのか。

 土俵の写真はアップして良いのかわからないので(できれば「写真は真実を伝えるか?」のようなネタをやってみたかったのだが)アップせず。三段目・幕下では知っている力士の取組があまりなく、幕内でも北桜や普天王や栃煌山や千代大海や琴欧州は負けてしまったのだが、取組を見て以下気付いたことを。

・三段目の取組。250キロあるといわれる大露羅の取組を見たが、立ち合いというよりただ立ち上がるだけで踏み込みが全くなし。小錦はもっと前に出ていたと思う。
・同じく三段目。勝った力士がその瞬間「うしっ!!」と声を上げてガッツポーズ。勝ち越しだったのだろうかよほど嬉しかったようで3度「うしっ!!」と言っていた。
・幕下以下の取的でも、部屋のブログを書いていたりして名が知れている力士には割と大きな声援が飛んでいた。(追記:この力士、東桜山はこの一番を最後に引退したのだとか)
・十両の力士が国技館入りするときに周りでファンが声を掛けたりするのだが、関取が通る度に「あいつは北桜の弟」「あいつは欧州勢で一番若い」と親切に解説してくれるおじさんがいた。
・この日は高見盛は「しょんぼり」の日。その後出てきた豊真将の勝ちっぷりに高見盛並みの声援。やはり勝利で声援を掴まないと。

 館内にいた親方のほうにもかつてテレビで見た顔が多く、「うゎ、有名人多いな~」という気になる(本場所だから当たり前か)。前述の「角界の松平健」こと立浪親方や音羽山親方(元貴ノ浪)を館内で見たし、審判委員の名前にもかつて活躍した親方が見え、土俵の外にむしろ馴染みを感じてしまう。現役力士は皆若いからなぁ(当たり前か)。
 この日は皇太子殿下ご一家もご来場。もっとも、幕内後半だけのご観戦だった。愛子さまのお目にとまるためには幕内後半で取れるように頑張らないと。

 今場所は白鵬が優勝し、隆乃若が引退。そんな場所のある1日。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007年9月24日星期一

ハンガリー・チェコ旅行(9)-プラハとドレスデン-

前回の続き。上海在住時にお世話になった人がプラハにいるということもあり、今回の夏休みをハンガリー・チェコ旅行にした。実はプラハには9年前に来たことがあり、そのことを話すと国境を越えたドイツのドレスデンも良いと勧めてくれたので、足を延ばすことにした。プラハから車で片道2時間あまりの旅である。

Img_3385 Img_3399 Img_3413  ドレスデンはドイツ東部・ザクセン州の州都で、エルベ川のほとりにある街である。旧東ドイツの工業都市であるが、その前第2時大戦末期には大空襲で街は大きな痛手を負ったそうである。

Img_3388 Img_3438  王宮跡の壁には、長さ100メートルに渡ってタイルの上にドイツの歴代君主が行進するさまを描いた「君主の行列」という絵がある。歴代君主を1枚の絵にまとめて描くというアイデアと、その大きさと精密さの両方に驚く。

Img_3412  ツヴィンガー宮殿。




Img_3427  街を蛇行して流れるエルベ川。
 地図も持たず、予備知識も殆どなかったので王宮や宮殿付近のみの散策だったが、


Img_3360 Img_3364  前述の通りプラハに来るのは2度目であり、滞在日数も上のドレスデンも含めて2日と長くなかったので、プラハの街はくまなく見たというわけではない。しかし以前来たときに「もう1度来たい」と思わせるようなところだった。
 左写真はヴァーツラフ広場、奥に見える国立博物館では『007』の撮影が行われたのだとか。右写真は広場に接するナ・プシーコビェ通り。

Img_3459  プラハ市街を見下ろすように建つ、プラハ城。




Img_3466  ここプラハ城では、台北の忠烈祠のような衛兵交替を見ることができる。毎時交替するそうだが、毎日正午のものはとりわけ盛大に行われるとかで、たまたま正午にここにいたら衛兵交替を見ようと人だかりができていた。ファンファーレが鳴り響き、確かに盛大なイベントだった。ここの衛兵も直立不動で動かず、写真撮影の的になっていた。

Img_3483  プラハ城内の聖ヴィート大聖堂と火薬塔。




Img_3513 Img_3530  プラハ城に別れを告げ、ストラホフ修道院へ。右写真はその最寄駅付近の様子。チェコ国旗が高らかにたなびいている。


Img_3519  この修道院近くから、プラハ城とプラハ市内を臨む。絶景である。




Img_3548  丘をトラムで下り、再び市街地へ戻る。写真はヴルダヴァ川に16世紀からかかるカレル橋。橋には聖人像が並び、彼らが見守るなか橋の上は観光客や彼らを目当てにした土産物売りや大道芸人で賑わっている。


Img_3552 Img_3554  橋に立つ聖人像の中には、フランシスコ・ザビエルの像もある。彼を担ぐ像の中には、日本人と思しき姿の像がある。





Img_3568  橋をプラハ城側(川の西岸)に渡ったところ、Mostecka通り。







Img_3453  再び川の東岸に戻る。




Img_3586  カレル橋の上にプラハ城を望む。プラハを象徴する光景だろう。




Img_3590  街の中心にある旧市街広場を目指す。このあたりは土産物屋やカフェが多い。






Img_3615  旧市街広場。




Img_3605  広場に面した旧市庁舎の塔の下にある時計。15世紀からこの姿なのだとかで、毎正時には仕掛け人形をみることができ、このあたりは人でごった返している。






Img_3612  やはり広場に面した、聖ミクラーシュ教会。




Img_3384  距離が遠くなかなか簡単には行くことができないヨーロッパだが、このプラハを始め今回訪れた街はどこも「もう1回行ってみたい」街だし、2度目の訪問だったプラハは「期待通り再訪するに値した」街だった。
 それにしても今回もあちこちと走り回ってしまった。旧正月にスペインを旅したときもそんな旅だったので「次は一都市滞在型でゆっくりと」といつも思うのだが、見どころのあると聞いたところにそのまま行く、という感じで、興味の赴くままに、という旅になっている。次に機会があればどうしようか、考えどころである。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

2007年9月23日星期日

ハンガリー・チェコ旅行(8)-チェスケー・ブディェヨヴィツェ-

前回の続き。今回チェスキー・クルムロフに行くに際し、そこまでの交通機関は非常に限られているがその手前の街、チェスケー・ブディェヨヴィツェまでは列車にせよバスにせよある程度の足がある。今回はこのチェスケー・ブディェヨヴィツェに2泊し、その真ん中1日をチェスキー・クルムロフ観光に充てた。
 ゲートウェイとしてのチェスケー・ブディェヨヴィツェであるが、この街自体も良い眺めである。

Img_3334 Img_3335 Img_3336  この街の中心、プジェミスル・オタカル2世広場。



Img_3352  広場への入り口。




Img_3353  やはり広場の近く、聖アン教会。




Img_3130Img_3309 Img_3126  広場から鉄道駅に向かう途中にて。




Img_3331 Img_3317  チェスケー・ブディェヨヴィツェの郊外、バスで30分のところにフルボカー城がある。同じバスで30分のチェスキー・クルムロフに負けず劣らない光景である。「お城らしい」といえるだろうか。

Img_3324 Img_3326  壁にしつらえられた鹿のレリーフ、ドアにある人と鳥のドアノブなど、細かいところも個性的である。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007年9月22日星期六

ハンガリー・チェコ旅行(7)-チェスキー・クルムロフ-

前回の続き。
 ブルノを夕方に発ち、4時間余り列車に揺られてチェスケー・ブディェヨヴィツェに到着。翌朝ここからバスに乗って30分余り、チェコ南部の世界遺産の街、チェスキー・クルムロフへ。

Img_3135  この日はあいにくの雨模様。城門をくぐり、街を目指す。




Img_3140 Img_3139  遠くから見ると壁に模様を書いただけのように見えるが、近づいてみると壁に巧妙に模様を刻んでいる。



Img_3145  街の真ん中にあり、またこの街の象徴であるチェスキー・クルムロフ城へ入る。



Img_3151 Img_3158 Img_3159  城の塔と、そこからの街の眺め。街を流れるヴルダヴァ川では、カヌーを楽しんでいる人もいる。


Img_3190  城の中庭。




Img_3174  城の東側と西側を結ぶ橋。




Img_3188  日時計があった。昔は使われていたのか。




Img_3199  チェスキー・クルムロフ城を後にして、修道院にて。




Img_3204 Img_3207  街の目抜き通り、Latran通り。




Img_3208_2    チェスキー・クルムロフ城のみならず、少なくないこの街の建物はその歴史が残されており、現地で買うガイドブックに紹介されている。写真の建物は16世紀までに何度か改築されて今の姿になったのだとか。壁は上の写真にある建物同様に、壁面を刻んで立体感を表現している。




Img_3216  ヴルタヴァ川を渡り、街の南部へ。




Img_3220  16世紀の名家の住まい。今はレストラン。




Img_3259  ナ・ロウジ広場にて。中央の建物は16世紀・19世紀に建て直されたと紹介されているから、その前からあるのだろう。ここも今はレストラン。



Img_3267  ナ・ロウジ広場につながっている、Siloka通り。チェスキー・クルムロフ城を背景に、絵本のような建物が並んでいる。



Img_3232  街の南側にあるスヴォルノスティ広場。おそらくこの街の中心だろう。レストランなどが広場を囲んでいる。



Img_3250  丘の上にあり、この街のあちこちで見えるチェスキー・クルムロフ城。この城をその姿からプラハ城に例え、この街を小プラハと言う向きもある。確かに街の色づかいはプラハに近いものを感じたが、プラハとは違う様子を見せてくれる街である。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007年9月19日星期三

ハンガリー・チェコ旅行(6)-メンデルの法則@ブルノ-

前回の続き。今回ハンガリーとチェコに行こうと思ったことを職場で話したところ、同僚の1人が「チェスキー・クルムロフというところがいいらしいですよ」と教えてくれた。謝謝。
 今回の旅行中、プラハで知人に会う約束をしていたので限られた日数の中で折角教えてもらったチェスキー・クルムロフを組み込もうといろいろ考えたが、ブダペストから直接行く足はなさそうである。そこでいろいろ調べた結果、朝ブダペストを国際列車で発ち、この列車をブルノというところで降りて3時間ほど待ちチェスキー・ブディェヨヴィツェ行きの汽車に乗り換え、このチェスキー・ブディェヨヴィツェという街を基点にしてチェスキー・クルムロフに行けば良いという結論に達し、そうすることにした。
 ブダペストから乗った列車は、ベルリン行きの国際列車。途中ドナウ川を車窓に見ることができ、眺めの良い車窓を見ながらの汽車旅であった。川の両岸がコンクリートで覆われているというわけではなく、周りの土地と一体になっているのが印象に残っている。
 4時間ほど乗っているうちに途中スロバキアを通り抜け、チェコへ入りブルノで下車。3時間余りの乗り換え時間を使い、街をぶらぶらと散策することにした。

Img_3075  ここブルノには、「メンデル記念館」という建物がある。当地の修道院の司祭であったメンデルが、本業のかたわらエンドウマメの交配実験など遺伝の解明を行ったのが、このブルノにおいてである。


Img_3070  優性遺伝・劣性遺伝という言葉や、メンデルが緑と黄色そして丸としわのエンドウマメを交配させたこと、そうすると雑種第2代ではそれぞれ前者と後者が3:1になったり「緑・丸」「緑・しわ」「黄色・丸」「黄色・しわ」などというエンドウマメがあったことやそれぞれが雑種第2代では9:3:3:1になることを昔習ったなと思い出した。そのことを紹介するスライドもあった。
 メンデル記念館、ブルノ駅からトラムですぐである。

Img_3085  メンデル記念館の並び。




Img_3051  約3時間の滞在ではあまり遠くへは行かれないので、メンデル記念館以外は駅前を散策。



Img_3058 Img_3059  駅からすぐのところにある緑の広場は野菜市場になっており、野菜を売る屋台が並んでいる。



Img_3061  トマトやピーマンを並べている屋台。色鮮やかである。




Img_3063  じゃがいもやたまねぎは、ちょっと地味か。




Img_3089  駅前の旧市街を囲む道路に建つ、マーヘン劇場。




Img_3091  やはり環状道路にて。




Img_3094  旧市街の北側にある、聖トマーシュ教会。




Img_3100  旧市街を駅に向かって南下。




Img_3106  再び緑の広場に着いたときには影が長くなり、野菜市場はそろそろ店じまいか。
 このブルノ、チェコ東部の主要都市であり今日では著名日系企業も進出している。歴史のある工業都市で、メンデルは遺伝の研究にいそしんだのである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007年9月18日星期二

ハンガリー・チェコ旅行(5)-続々々・ブダペスト-

前回の続き。王宮付近を見た後はまたペスト側に渡り、特にあてもなく歩く。通りの名前や建物の名前も気にせず、道に迷ったら戻ればいい、といった程度である。

Img_2860 Img_2862  前日行った民族博物館の裏、70番トロリーバスが走っている通りKalman Imureを歩く。カフェが多く、夜も賑わっているに違いない。



Img_2867 Img_2870  やはり同じ通りにて。




Img_2877  この教会らしき建物の奥を横に見てしばらく行ったところで左折。







Img_2878 Img_2880Img_2884  またしばらく歩く。




Img_2885 Img_2886 Img_2888 Img_2889  しばらく行くと、門前の彫刻や脇にある子ども?天使?のレリーフが見事な建物があった。

Img_2890  そのはす向かいにある、1階がカフェになっている建物。




Img_2895  また歩くと、トラムも走っている大通りにぶつかった。この大通り、名前を変えながらブダペストを囲むように走る環状線であり、人通りの多い賑やかな通りである。ここからトラムに乗り、南側に走ってみる。


Img_2903 Img_2905  翌日のチェコ行きの列車の切符を買うべく、地下鉄2号線と交錯するBlaha Luiza ter駅で下車。写真はその駅付近。


Img_2913 Img_2921 Img_2928  上右写真奥、マクドナルドの手前からトラムが枝分かれして走っていたので、数駅乗ってみた。写真はその脇に建つ建物。


Img_2934  今度は環状道路と地下鉄1号線が交差する、Octogon駅へ。ここから国立オペラ劇場まで地下鉄で1駅である。



Img_2940  国立オペラ劇場。今回は観劇はせず。




Img_2942 Img_2943  オペラ劇場の脇を走る、細い道を歩いてみる。




Img_2951 Img_2954  この道を歩いていると再び大きな通りにぶつかり、目の前に聖イシュトヴァーン大聖堂が見えてきた。ここブダペストでは、建物もそうだがそこにある彫像にも目を奪われる。

Img_2967  大聖堂の近くの駅からまた地下鉄に乗ってOctogon駅に戻ったところで日が暮れてきたので、今回宿をとったブダ側に戻る。写真はその途中、ブダペスト西駅。翌日乗る列車はここからではなく、東駅からの発車である。


Img_2979  あちらこちらブダペストの街を歩き回ったが、最後にマルギット大橋の真ん中でトラムを降り、日が暮れつつあるくさり橋の方角を臨む。

 「ここはいいな」と思う街でいつも思うのは、昔からあるであろう建物や風景が孤立しているのではなく、今でも街の重要な機能を果たしつつ人々を惹きつけていることである。ただ保存されているというわけではなく、生き続けているといった印象を受ける。

 ブダペストはここまで。次はチェコへ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007年9月17日星期一

ハンガリー・チェコ旅行(4)-続々・ブダペスト-

前回の続き。

Img_2731  日を改めて、王宮に登ることに。




Img_2736  坂道から再びくさり橋を見下ろし、




Img_2750  さらにドナウ川を挟み遠く国会議事堂を見る。




Img_2754  王宮の建物は第2次世界大戦でダメージを受け、現存する建物の多くは修復されたもので比較的新しいのだとか。しかし、それでもこの街に相応しい重厚な雰囲気である。現在は国立美術館や歴史博物館になっている。


Img_2763  上の写真奥を上った広場にて。




Img_2767  建物の向かいは、発掘途中の遺跡だろうか。




Img_2772  青空の下、広場にハンガリーの国旗がたなびいている。








Img_2773  広場から歴史博物館方面に向かう道。




Img_2789 Img_2793 上写真とは逆の方向、王宮の丘と言われる一帯を目指し、三位一体広場へ向かって北上する。




Img_2800  三位一体広場にあるマーチャーシュ教会は改修中であった。




Img_2802  広場にある、三位一体の像。




Img_2801  このあたりには土産物屋や商店・レストランが並んでいる。この店では、ハンガリー料理に多く使われるパプリカを前面に出して宣伝している。




Img_2805 漁夫の砦。ここからもドナウ川が一望できる。




Img_2811Img_2815  王宮の北側の出口を目指す。




Img_2818 Img_2817  上の通りと並行して走っている通りと、マーリア・マクドナルド塔。13世紀の教会の跡。

 この王宮の丘一帯も、石畳の道を残した趣のある街並みである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007年9月16日星期日

ハンガリー・チェコ旅行(3)-ブダペストでモンゴル展-

前回の続き。
 ハンガリーの人達のルーツであるが、フン族やアヴァール人などアジア系遊牧民がやってきてこの地に住みつき、さらにはマジャール人がウラル山脈付近から西進してきたとされている。多くのハンガリーの人達は、はるか東方の中央アジアにルーツを持っているのである。

Img_2609  今回旅行中にブダペストの国立博物館を訪れたところ、「チンギス・ハーン展」と思われる特別展示をしており、チンギス・ハーンの彫像の写真が入り口で出迎えてくれた。
 展示の中身はチンギス・ハーン展というよりはモンゴルの歴史をたどるような感じであった。展示品の多くがウランバートルの博物館から借りてきたもののようで、モンゴルの各時代の生活用品・武器・文献・石像などが展示されており、ルーツが東方にあるとは言えめったにお目にかかることのないモンゴルの文物を見ようと多くのハンガリー人で賑わっていた。
 石像の中に、「現在謹慎中の横綱」を彷彿とさせる石像があった。やはり昔から「ああいう顔」があったのか。

Img_2624  「とある大学の学園祭」のように、敷地内にはゲルが建っていた。中はモンゴル料理店ではなく、特別展示のミュージアム・ショップ。


 この国立博物館では、ハンガリーの歴史にまつわる常設展もやっている。個人的には常設展の終盤、第1次大戦後や第2次大戦後のポスターなどの展示に、この国がつい最近まで歩んできた苦難がうかがえて印象に残っている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

ハンガリー・チェコ旅行(2)-続・ブダペスト-

前回の続き。

Img_2515  くさり橋の上から、国会議事堂を臨む。




Img_2532  再びペスト側に渡り、国会議事堂へ。中を見ることもできるのだが、あまりの長蛇の列に見学は断念。



Img_2542  国会議事堂の向かいにある民族博物館。1900年代初のハンガリー人の生活を、幼少期-少年期-青年期-壮年期-老年期と写真を並べた展示が興味深かった。まだ写真を撮るということが一般的ではなく何かの節目節目、例えば結婚写真とか家族がスタジオで撮った集合写真が写真を撮る主な機会だったのだろうが、それに加えて当時は少なかったであろうスナップ写真が当時のハンガリーの様子を伝えてくれる。

Img_2591 Img_2592 Img_2584  民族博物館を後にし、地下鉄の駅を目指す途中にて。



Img_2593 Img_2600  途中の自由広場Szabadsag terにて。自転車でまわる市内観光ツアーがあるようだ。
 この日は日曜日、家族連れでのんびり過ごす人達もいた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007年9月15日星期六

ハンガリー・チェコ旅行(1)-ブダペスト-

 先月のことだが、7泊9日でハンガリー・チェコを旅してきた。
 訪れた雰囲気の良い街並みはどれもそれなりの歴史を持っているのだが、その中をその街に住み人が行き交い今でも街としての重要な機能を果たしている。どの街にもある広場にただぼんやりと座っていたり広場に面したレストランで昼食をとるだけでも心が和むし、立ち去り難いところばかりである。
 日本から飛び立ってまず降り立ったのはハンガリーの首都・ブダペストである。ブダペストはドナウ川を挟みかつては西側が王宮を中心としたブダ・東側が商業都市ペストであったのが1つの街になったのである。

Img_2434  今回はドナウ川の西側・ブダ側に泊まったのだが、ホテルの隣にあった教会。



Img_2440 Img_2441 Img_2442  ここからトラム(市電)と地下鉄を乗り継ぎ、ペスト側のデアーク広場へ。



Img_2448  デアーク広場にある池で、自作のラジコンボートで遊んでいる人とそれを眺める人達。



Img_2449  デアーク広場に面したZsilinszky通りにて。上海にある武漢大楼に似ているような気がする。



Img_2451  やはりZsilinszly通りにて。




Img_2452  ここから進路を西にとり、ドナウ川を目指す。




Img_2459 Img_2483  ペスト側からドナウ川を挟み、王宮を臨む。




Img_2466  やはりペスト側からブダ側のもう少し北、名前は思い出せないが教会を臨む。



Img_2461 Img_2474  ブダ側とペスト側を初めて結んだ「くさり橋」の手前にあるルーズヴェルト広場を囲む建物。



Img_2463 Img_2467  くさり橋を横から。




Img_2478  くさり橋を渡り、王宮があるブダ側に向かう。




Img_2488 橋の途中から、再び王宮を仰ぎ見る。




Img_2485  くさり橋の途中で、今度は対岸を見る。




Img_2497 Img_2498Img_2508  くさり橋を渡り切ったところ。ライオンの像が渡った人達を見送り、出迎える。



Img_3011 Img_3003 Img_3009  このくさり橋に、夜再び行ってみた。昼間とはまた違った美しさである。



 くさり橋付近だけでもこれだけ絵になるブダペストである。写真が多くなったので、続きは後程。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

2007年9月11日星期二

FIFA2007中国女足世界杯

20070424113_6



 昨日(10日)から、女子サッカーのワールドカップ(FIFA2007中国女足世界杯)が中国で開かれており、天津・上海・成都・武漢・杭州の5都市で試合が行われる。日本は今日初戦を戦い、イングランドと2-2のドローだったとのことである。

 メキシコまで行って激闘の末出場権を勝ち取ったのは聞いていたが、その割には日本では本戦のメディアでの扱いが今ひとつな気がする。
 これは私が上海にいた頃でも同様で、来年の北京五輪はさておき来月やはり上海で開かれるスペシャルオリンピック(世界夏季特殊奥林匹克运动会)は街のあちこちで宣伝しており、バス・タクシーの中やバス停で宣伝していたり学校にもそれを意識した啓蒙が書かれていたりしたのだが、女子W杯が中国で開かれることは今年になって街を歩いているときに宣伝を見て初めて知った。
 写真は今年4月、上海・虹口地区の四平路にて。上海での会場が虹口足球場だから虹口で宣伝を見かけたのだろうか、上海の他のところでは気がつかなかった。
20070424111  やはり四平路にて。上海で市民のマナーを向上させるのに「办特奥,迎世博,做可爱的上海人」などと上海で開かれるイベントに絡めてそれらのホストとして相応しい上海人になろうと呼びかけるスローガンが掲げられるが、ここでも女子サッカーW杯をマナー向上の呼びかけに結び付けていた。

 この後日本代表は14日にやはり上海・虹口足球場でアルゼンチンと、17日に杭州でドイツと試合を行うとのこと。上海・杭州での健闘を期待したい。

*FIFAによる女子W杯のウェブサイト 英語/中国語
*日本サッカー協会による女子W杯のウェブサイト

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007年9月7日星期五

『長江哀歌』

 台風一過の今日、仕事帰りに日比谷のシャンテ・シネで映画『長江哀歌』(原題:三峡好人)を見てきた。
 舞台は三峡下りの途中、奉節。16年前に別れた妻子を探しに山西省からやってきた男と、2年間音信不通の夫を探しにやはり山西省からやってきた女のストーリーが、殆ど交錯することなく展開される。
 舞台となった奉節は三峡ダム工事で川底に沈む街で、既に男が持っていたメモに書いてあった妻の住所は水没しており、また更なる水面上昇に向けて立ち退き・移転や建物の取り壊しが進む、廃墟となりつつある街である。監督の賈樟柯はこの街を「死刑宣告された街」(映画パンフレットより)と称している。観光船のアナウンスが「2006年には水位が更に150メートル上昇します」と言い、男が食事をする食堂で少年が『老鼠爱大米』を歌っていたり船上で別の?少年が『两只蝴蝶』を口ずさんでいる(どちらも2004年のヒット曲である)、そんな時期である。
 女は夫の変わりようを見て離婚を切り出す。「好きになった人と上海に行くの」と言いながら彼女は一人で上海への船に乗る。他方男は妻を捜し出すが、彼女は兄の借金のカタにとられ、船の上で働いている。男はその借金3万元を1年のうちに返すと言い、奉節を去り山西省へ向かう。山西省には危険だが金になる炭鉱の仕事がある。帰る時に妻と一緒だったかどうかは、わからなかった。
 舞台となっている奉節だが、三峡下りの観光イメージとは異なり、映画の中では曇りの日が多い。また先に述べたとおり今や廃墟となった、「死刑宣告された街」である。その中で妻の住所が書かれた紙切れ1枚をあてにやって来た男がしばらく解体作業をしながら暮らしているし、何かと世話を焼くチンピラや男が泊まっている旅館(何と1泊1.5元)の主人などがそこでたくましく暮らしている。解体工事をする仲間もいる。「死刑宣告された街」にも、その日その日を生きている人達がいるのである。しかし、その光景は上海などとはあまりにもかけ離れたものである。
 この映画には有名俳優や美男美女(これは好みにもよるだろうが)が出てくるわけではない。山西省からやってきた男と女がこの「廃墟の街」で尋ね人を探すことで希望をつかもうとし、男は妻を探し当てて希望をつなぐが女は新しい生活へ踏み出そうとするのであった。廃墟の街で未来を見出そうとするのである。

 ところで、映画の冒頭奉節に向かう男が乗っていた船とすれ違う船のアナウンスが「奉節発崇明島行き」であった。崇明島のことは拙ブログで先に紹介したことがあるが、上海に住んでいた頃に読んだタウン誌に、奉節だったかどうか忘れたが三峡ダム工事で水没する街に住む人が崇明島に移住する船に乗る様子が載っていたのを思い出した。揚子江の河口で三峡の思い出を抱えながら、決して容易ではないであろう移住先での日々を過ごす人がいるのである。
 さらに、10元札の裏は三峡の光景なのだとかで、解体現場の人達が男に紹介していた(他方旧50元札の裏は、男の故郷の風景なのだとか)。表の毛沢東ばかり気にしていたが、次に10元札に出会うことがあれば裏もよく見てみたい。そのときには、この映画を思い出すだろうか。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

« 八月 2007 | Main | 十月 2007 »