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十月 2009
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2009年・環黄海旅行記(23)釜山~博多・フェリー「ニューかめりあ」
下関を起点に中国・韓国を駆け足で回った今回の旅行も終わりが近づいてきた。釜山港から船に乗って日本に戻らねばならない。
まずソウルから釜山へ高速電車KTXで移動。やはり折角の乗車機会なので1等車に乗車。3列シートのゆったりとした座席である。運賃は週末料金の71,700ウォン、これに自動券売機購入による700ウォンの割引がある。券売機での購入は英語の画面が選べるので割と簡単である。
釜山までの2時間45分は殆ど寝ていたのだが、9月末ということで沿線に実る稲穂が黄金色で美しかった。
釜山駅に着き、フェリーが出る国際旅客ターミナルへの行き方を尋ねたところ時間は決まっていないが連絡バスが出ているとのことであった。教えてもらった出口へ行くと、タクシー乗り場の隣にそれとわかるバスが停まっていた。他のバスの停留所と離れておりそもそも停留所の案内もなかったような記憶があり、バスが停まっていないとわかりにくいだろう。
釜山からは下関行きと博多行きのフェリーが出ている。略同時刻に出るのだが、今回は博多行きのフェリーに乗ることにした。2等運賃の90,000ウォンはクレジットカードで支払ができたが、港湾使用料3,200ウォンは現金で支払う必要がある。
ターミナルの屋上から見た、今回乗るカメリアライン運航の「ニューかめりあ」号(韓国側代理店のウェブサイトはこちら)。昼間に博多から釜山へと運航し、夜に釜山を出て翌朝博多に着くというスケジュールであり、この航路に入っている1隻が1日で1往復するという運航形態である。釜山と下関を結んでいる関釜フェリーが2隻の船で釜山→下関・下関→釜山を夜行便で結ぶ(それぞれの船は1日で1片道航海、2日で1往復することになる)のと比べると船にとっては密度の高いスケジュールになっている。
夕方釜山に着いた「ニューかめりあ」。国際仕様のサイズのコンテナだけでなく、船尾から小さいJRの貨物コンテナが下ろされているのが見える。
こちらは下関へ向かう関釜フェリーの韓国側投入船「SEONG HEE」号。
時刻表では20時出港となっているが、この日は19時から出国審査がありその後すぐにフェリーに乗り込んだ。
「ニューかめりあ」の船体全体を写真に収める機会はないが、船内にある案内のテレビ画面による本船の紹介から。
客室へ向かう通路。今回乗った3隻の船の中で、この「ニューかめりあ」がいちばん船内がきれいに整備されていたと思う。前述の通り1日で博多と釜山を往復する、他の日中・日韓フェリーに比べると厳しいスケジュールの中でよくやっていると感心する。
船内には浴場もあり、こちらも清潔に整備されている。朝は5時半から利用可能で、博多ポートタワーを目の前に見ながら入浴することができる。
船内にはカラオケボックスも確か3室用意されている。夜だと船内で寝るだけなのだが昼間の航海だと時間をもてあます人もいるだろうからその間にカラオケを、という客も少なからずいるだろう。
他にはゲームセンターもあった。
食堂は食券式。食堂に限らず船内では日本円のみが使用可である。
自動販売機に「ジョジャックッ定食」という名前を見付けたので、何かわからないままに注文したところ、出てきたのは蜆の澄まし汁定食であった。
小皿の数やその中身も含めた定食の「韓国らしさ」という点では、煙台から乗った「香雪蘭」のほうに軍配があがると感じた。
今回利用した2等船室。所謂雑魚寝スタイルだが寝るときの頭の部分に仕切りがあり、周囲を気にせず眠ることができるようになっている。
19時過ぎに乗船して20時出港ということであったが、釜山~博多間は実質6時間くらいの距離ということで実際に船が動き出したのは22時過ぎである。翌朝5時半に目が覚めたときには既に船は博多港に着岸しており、人によっては「釜山出港前に寝て博多到着後に起きて、航海中はずっと寝ている」ということもあるかもしれない。
早朝の博多港。おそらく近所の方であろうか、朝早くから岸壁で体操をしたり釣りをしたりしていた。また、博多ポートタワーの前を、朝早くから小さな旅客船が横切っていった。
朝7時半から下船開始だったが、混雑することもなくスムーズに降りることができた。
今回の旅では日本・中国・韓国をそれぞれ船内1泊で移動し、福岡や下関エリアと中国・韓国との「距離の近さ」を改めて感じた。それぞれ(混雑期でなければ)切符も窓口で簡単に購入することができるのも旅への敷居を低くさせてくれ、中国・韓国へ行くには飛行機に乗る必要がある東京では感じることが出来ない距離感である。
青島・煙台・仁川それぞれに訪れる前には思いもよらなかった街並みを歩くことができ、当初はフェリーや貨物船で日・中・韓を移動するのが主目的だったが訪れた街での新鮮な体験と新しい発見もまた、そしてそのほうが印象に残る旅であった。
2009年10月29日星期四
2009年・環黄海旅行記(22)韓国放送通信大学校
韓国滞在3日目。この日の午後にはソウルから釜山に移動し、釜山から船に乗って日本に戻らなければならない。
韓国観光公社で貰ったソウルの市内地図の上の隅に「韓国放送通信大学」の名を見つけたので、午前中にそこ=韓国放送通信大学校、日本の放送大学と似たシステムでテレビやラジオを通じて大学教育を行っている大学に行ってみることにした。
地下鉄4号線の恵化駅で下車し、駅前の広い道(大学路-通りの名前は近くにあるソウル大学に由来。放送通信大学校もソウル大学の付属機関だったことがある)を東大門広場の方向に戻るように歩くと、5分ほどで上写真の案内板が見えてくる。
左写真は構内の案内。
中にはいくつか建物があり、それぞれに守衛の方がいたので中に入っていいか聞いてみたが、明らかに部外者とわかるからか断られた。かつて放送大学で学んだ韓国語を使って韓国放送通信大学校への訪問を試みたが、たかだか45分x15週の学習では歯が立たず一蹴された、というところだろうか。一昨年、台湾の国立空中大学の学習センターを訪れた時のようにはいかなかった。もう少し言葉ができれば中を見ることができたのか、あるいは守衛の方ではなくて学校関係者の方とどこかで接することができれば入ることが出来たのか。もっとも、よしんば入ることが出来たとしても言葉を解さないので意味もわからずただ見てまわるだけになりそうではある。
建物の上には「한국방송통신대학교」の文字が見える。「방송」-「バンソン」-「放送」、「통신」-「トンシン」-「通信」、と、中国語の音に近い言葉だと漢字表記が類推できる。
大学で行われるイベントの告知だろうか、大学のURLが書かれたものなど横断幕がいくつも掲げられていた。
こちらは「学生会館」か。
図書館。
敷地内で唯一古そうな、欧風建築の建物を見かけた。白く塗られているこの建物は今では講堂のようであるが、前に植えられている記念植樹には「一九〇七年(高宗四四年)三月工業傳習所本舘(史跡第二七九号)竣工紀念」と書かれていた。
日本の放送大学の本部の周りはやや閑散としているが、この韓国放送通信大学校は大通りに面していることもあり学校の前や脇の通りには店が並んでおり、学校へ来た際に食事に困ることはなさそうだ。
大学校を後にして、東大門広場を目指す。途中に教会に見える立派な建物があったが、どうも結婚式場のようである。教会風の建物にしては通りの向こうからも教会のものとは違う、韓国の文化を描いた絵が壁に描かれているのが見えたので違和感があったが、結婚式場なら合点がいく。
東大門市場。衣類や布に関連した店が並ぶマーケットである。夜遅くまで賑わうようであるが、午前中ということで人通りは多くなく閑散としていた。
市場内を流れる清渓川。ソウルの中心部を流れており、市内の散歩道になっている。
東大門。
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日本の放送大学のテキストは大きな書店で見ることができるが、韓国の韓国放送通信大学校のテキストを邦訳した『現代韓国社会を知るためのハンドブック』という本がある。韓国の現代社会における諸問題に焦点を当てて解説した本のようである。放送大学のテキストのような雰囲気なのだろうか。
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来月(11月)14日~15日、放送大学によるシンポジウム「世界公開大学シンポジウムinさいたま」というイベントがあり、放送大学と同様のシステムで遠隔教育を行っている世界各地の大学による講演があるようだ。遠隔教育に関する専門的なイベントであり学術的に教育に携わっている人あるいは遠隔教育に携わっている人が主対象のようであるが、世界各地で遠隔教育を行っている大学、そしてその方法で社会人に大学教育を行っている大学の存在に興味があり、またそれぞれの大学がどのような取り組みをしているのかに関心があるので後日その内容を知ることができればよいのだが、と思う。
2009年10月28日星期三
2009年・環黄海旅行記(21)DMZ・都羅山駅へ鉄道の旅
韓国滞在二日目。特に予めツアーに申し込んでいた訳ではなく何をしようかと考えたが、韓国と北朝鮮の軍事境界線地域、所謂DMZまで列車で行けるようになったとのことなので、ソウル駅から列車に乗ってDMZを目指すことにした。
境界線の駅である都羅山駅へ行くには、ソウル駅から京義線の電車に乗って汶山(1文字目はさんずいに文)駅へ行き、そこでディーゼル列車に乗り換えて行くことになる。もともと京義線はその名が表すようにソウルから北側の新義州を結ぶ路線だったのだが、南北分断で京義線も分断されてしまい、韓国側の京義線は長らくソウルと汶山を結ぶ近郊路線であった。近年南北の合意で再び京義線が南北間で結ばれ、直通列車を走らせることも可能になり2007年からは境界線を越えて貨物列車が走っていたがそれも1年で中断となった。
ソウルから乗る京義線は最近電車化され、それに伴いソウル駅の他のホームへの入り口とは離れたところから乗車する。朝8時50分発の電車に乗り、汶山駅まで約1時間の乗車である。
汶山駅でディーゼルカーに乗り換える。ソウルでは汶山駅までの切符しか買うことができないので、ここで改めて都羅山までの切符を購入する。乗り換え時間が5分しかないので慌しく切符を買って乗車。
切符は都羅山駅までなのだが、続けて乗ることができるのは2駅隣の臨津江駅までである。10時に汶山駅を出発したディーゼルカーは10時10分に臨津江駅に到着。
ここで下車し、隣の都羅山駅からDMZツアーに参加する人はそのチケットを買うことになる。あまりいないのだろうが都羅山駅までの単純往復の人は別途手続きをする。
いずれを選んでも、都羅山駅へは1時間後に再びやってくるディーゼルカーに乗って行くことになる。
ホームは柵で区切られており、汶山から来た人は柵の向こうで下車し、1時間後に柵の手前から再び乗車する。
DMZツアーのチケット売り場。ツアーに参加したい人はここでチケットを買う。17,000ウォンであった。
駅前の通りの先には臨津閣公園がある。ソウルからDMZツアーに参加すると途中でこの公園に立ち寄る。歩いて行けそうだったが、下手に駅を離れるのも拙そうなので今回は行かなかった。
駅前に広がる水田。稲を用いて文字が描かれている。横書きで上段は臨津江が属する地名である「パジュ(坡州)」だとはわかったが…

臨津江駅の駅舎。ここから都羅山駅に向かう際に、帰りの切符を持っていることが求められるようでそのことを駅にいる兵士に聞かれた。帰りの切符は都羅山からの切符をここで買うことができる。
ホームには、「ソウルまで52キロ、ピョンヤンまで209キロ」と書かれた案内板が建っている。
1時間後に再びディーゼルカーがやってきた。乗客を入れ替え、柵の手前まで移動したディーゼルカーに乗って都羅山駅を目指す。
臨津江=イムジン川を渡り、5分程で都羅山駅へ。
ホームの先には境界線を越えて北を目指す線路が見えるが、南北直通が中断され今のところ列車がこの先を走ることはない。
ここでバスに乗ってDMZツアーへ。このルートでDMZを目指すツアーは韓国人も参加することができる。ソウル発のツアーは外国人向けで韓国人は参加できないので、韓国人はこの「都羅山まで鉄道で行く」ことで統制区域内に足を踏み入れ、「都羅山駅からDMZツアーに参加する」ということで境界線付近を見ることになる。
今回のツアー参加者は少なく、韓国人とドイツ人?のアベックと韓国人女性3人連れ、それに私と近しい年頃と見える韓国人男性とその母親と思しき女性、それと私という顔ぶれであった。
まずは第3南侵トンネルへ。北側が韓国への侵入ルート確保のために掘ったとかで、1978年に発見されている。
日本語の音声も聞くことが出来る映像紹介を見た後でトロッコに乗ってトンネルを下り、さらにトンネル内を歩いて発見時のエピソードや当時の偽装の様子の説明を見ることができる。映像ではトンネル発見時の様子や時代背景を述べる一方で、他方トンネルの存在を「南北分断の悲哀」と紹介していたのが印象的であった。16年前に板門店ツアーに参加したときには北批判の強いガイドだったのだが、時代の流れだろうか。
そんな時代の流れか?敷地内にあった兵士の人形は「ゆるキャラ」系であった。
続いて都羅展望台へ。ここから望遠鏡で北側の様子を見ることが出来る。北側へカメラを向けることはできず、また北側が見える場所から離れたところでないとカメラを構えてはいけない。
素気ない施設だが、北に思いを持つ韓国の人は特別な思いでこの地に立ち双眼鏡を覗くのだろう。
このあと「統一村」なる、統制区域内にある集落にある食堂で食事をして(ツアー料金には含まれない)、都羅山駅に戻ってツアーは終わり。
韓国語を解さずいちいち旅程や集合時間の確認をする日本人(私)が目に留まったのか、ツアー参加者の韓国人男性とその母親と思しき女性に身振り手振りでいろいろと親切にしていただいた。「写真を撮ってあげようか?」と身振りで示してもらったり、食堂では向かいに座ってキムチなどの小皿をシェアしたりした。カタコトの韓国語でどこに住んでいるか聞いたところ「汶山」との答えが返ってきた。境界線近くに住んで長いこと何かの思いを持っていた母親をDMZツアーに連れてきた息子、ということなのだろうか、詳細はわからないが…
ツアーから戻り、帰りの列車までは1時間弱あるので駅の周りを散策する。写真は都羅山駅の駅舎。統制区域内なので、生活感は全くない。
南北ともに統一を目指しつつ異なる政府が存在するという現実を踏まえ、「異なる関税区域」という建前で税関の検査場がある。これも南北の列車運行が中断されている現在は使われることがない。
踏切を渡った向こうには公園があった。駅や踏切の係員がこの公園を勧めるが、今のところ見るべきものはない。それでもDMZにある公園は韓国人にとって意義があり、それゆえに係員も勧めるのだろうか。
都羅山駅の駅舎の中には、朝鮮戦争時に砲弾を受けた蒸気機関車の絵が飾られている。朝鮮戦争の象徴ともいえるこの機関車は今は先述の臨津閣公園にあり、車窓からもその姿を見ることができる。
他方、右写真は南北直通列車の運行を期待した絵である。
駅のホームから見た駅舎。「Transit office」の名に、境界線の最前線という位置づけを見ることができる。
臨津江駅と同様に、ソウルまでの距離とピョンヤンまでの距離が案内板に書かれている。
再び途絶えてしまった京義線の直通であるが、都羅山駅の隣は開城(ケソン)となっている。
都羅山駅からのDMZツアーは北を望む展望台での滞在時間も短く、他のみどころは南侵トンネルくらいなのでツアー自体には魅力が少ないといえる。ツアーの料金が安いことくらいがメリットだろうか。帰りもそのまま帰ると汶山からソウルを目指す路線で途中駅止まりになりそこでまた待たされて結局略1日がかりになるので、ソウルから板門店ツアーなりに参加したほうが見応えはあるかもしれないし効率的かもしれない。
それでも、自分で切符を買って交通機関を乗り継いで境界線へ、DMZへ行くということにおいてこのルートは意義深いものだといえる。用意されたツアーではなく(都羅山駅から先はツアーに頼らざるを得ないのだが)、普通に交通機関を利用してDMZへ行くことで違った感慨を持つのではないだろうか。韓国人がDMZへ足を踏み入れるための経路としても、この京義線経由のルートは意味があるものと言えよう。
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私が訪れた2009年9月現在、この都羅山からのDMZツアーは1日3回催行されるようだ。臨津江駅が11時10分・12時10分・14時10分発とかでその1時間前に臨津江駅に到着する列車に乗り、臨津江駅で乗り換えてツアーに参加ということになる。その3回のチャンスは、時刻表なりパンフレットで調べると下記のようになるだろうか。
・ソウル駅発08:50→汶山で乗り換え10:00発→臨津江着10:10で1時間後の列車を待ち11:10に同駅を出発
・ソウル駅発09:50→汶山で乗り換え11:00発→臨津江着11:10で1時間後の列車を待ち12:10に同駅を出発
・ソウル駅発11:50→汶山で乗り換え13:00発→臨津江着13:10で1時間後の列車を待ち14:10に同駅を出発
出発時間によって見ることができる場所も違うようで、最新の情報はソウルの韓国観光公社に電話するなり訪れるなりして調べるのが良いと思う(日本語O.K.、私も電話してソウルを何時に出ればよいか教えていただいた)。韓国観光公社の案内電話番号は、今いる場所の案内が欲しければ「1330」をダイヤルすればよく、他の地域の場合は市外局番+1330、日本など海外からは国際電話識別番号+韓国国番号 82+市外局番から0を除いた数字+1330である。
2009年10月26日星期一
2009年・環黄海旅行記(20)仁川・中華街の横に日本の街並みを見る
前回の続き。三国志の壁画が並ぶ通りを登ると、右に曲がる下り階段がある。この階段は「清日租界地境界階段」、かつての清国と日本の租界の境目となる階段で、階段の右側が清の租界、左側が日本の租界で現存する建物もその違いを残している。
背を向けている孔子像は、21世紀に入ってから青島市から寄贈されたもの。
階段の途中で唐辛子を干しているのは、やはり韓国というべきか。
階段を下りたところで振り返る。階段に並んでいる燈籠は、振り返ったので左側が清の、右側が日本の様式になっているのだとか。
階段を下りて左に曲がった通りが「歴史文化通り」と名づけられているとかで、やはり日本のどこかで見られそうな真家並みである。左写真手前に写る提灯が中華街の近くであることを表しているといえようか。
中区役所。かつてはここに日本領事館があったそうだが、建物は壊されて新しくなっている。
歴史文化通りを中区役所の前で曲がり、さらにクランク状に左に曲がるとやはり歴史を感じさせる白い建築物が姿を現す。
手前の平屋建ての建物は旧・第十八銀行。現在の十八銀行は長崎に基盤を置く銀行だが、かつて仁川開港前には対馬藩の関係者が住んでいた関係でその後も長崎出身の人がこの地には多くなったとかで、当時から長崎に基盤を置いていた十八銀行がこの地に店を開いたのだろうか。
今は仁川の近代建築博物館になっていて、このあたりの変遷を紹介している。
上写真奥の2階建ての建物は旧・五十八銀行。現存する流れを汲む銀行名より「その後の富士銀行」といったほうが我々にはなじみが深いだろう。現在は当地の飲食業組合の名前を地図に見ることができる。
旧・十八銀行と旧・五十八銀行の間には小さな公園があり、かつての街並みの写真が飾られている。
旧・十八銀行のある交差点を今度は十八銀行を背にするように逆に進むと、やはり古い趣がある旧・第一銀行がある。この第一銀行は日本の銀行ながら大韓帝国時代には同国の中央銀行のような役割も行っていたが、その中央銀行機能は後に韓国銀行に移された。門前にはその韓国銀行の改称後の名前である「朝鮮銀行」の文字が見える。
第一銀行は上述の五十八銀行と同じく今ではみずほ銀行・みずほコーポレート銀行であるが、その前の「第一勧業銀行」まで「第一」の名を伝えていた。
これらの銀行は日本統治期に仁川にやってきた訳ではなく、仁川が開港された1880年代前後に相次いで仁川に店を構えており、それぞれの建物は1890年前後に建てられたものである。日本の銀行が大韓帝国の中央銀行の役割を担ったことなど、この地にこれらの銀行が店を構えたことはそれぞれに歴史や背景があってのことでそのうち詳しく調べてみたいと思う。
旧・第一銀行の前の通り。往時の景観を残しつつ、牛乳屋や民家として今でも使われている。
仁川駅前界隈では、写真の露店に並べられている土産物のように韓国・中国・日本のものが混ざり合って姿を現しており、それはまた韓国が中国そして日本と関わってきた、関らざるを得なかった歴史を表しているともいえる。韓国の近現代史の一端をこの仁川の中華街付近では感じることができ、そしてそんな韓国の近現代史の上に仁川の街が成り立っているのだということも感じることができる。
2009年10月21日星期三
2009年・環黄海旅行記(19)仁川の中華街
今回乗った船「香雪蘭」号の船内には仁川(Incheon、인천、インチョン)の観光案内や地図が置いてあったのだが、その中に「チャイナタウン ときめきの旅」と日本語で書かれた地図が置いてあるのを見つけた。韓国語と日本語で仁川の中華街のことを紹介したこの地図を見ると、仁川駅のすぐ前が中華街になっているようである。下船したらまっすぐソウルに向かうつもりだったが、予定を変えて仁川のチャイナタウンに行ってみることにした。
仁川港の旅客ターミナルから市内へは、バスかタクシーで向かうことになる。止まっていたバスの表示は当然ハングルなのだが、その中に「동인천역」とあるのを見つけた。「역」は駅のことであり、口に出してみると「ドンインチョンニョク」…「ドン」は「東」だろうから「東仁川駅」ではないかと思った。「東仁川駅」がどんなところかはわからないがとにかく鉄道の駅に近づきそうなので、このバスに乗って「동인천역」を目指すことにした。
かつて韓国のバスに乗った記憶から車内アナウンスがないのではと思ったがこのバスではあり、さらに主な停留所では英語のアナウンスもあったので無事目的の「동인천역」-やはり鉄道の駅「東仁川駅」だった-で降りることができた。
この東仁川駅はソウルと仁川を結ぶ1号線(京仁線)の終点1つ前の駅で、ここから電車で1駅乗ると仁川駅である。
仁川駅。
仁川駅の目の前に、中華街の入り口であることを示す大きな門が建っている。
横にある道路案内の漢字表記は、おそらく中国語話者向けであろうが「華僑街」となっていた。
門をくぐると、中国料理店や中国物産店が軒を連ねている。坂が多いのが横浜の中華街とは異なるところか。

店頭では布製品や陶磁器といった土産物にもなる実用品のほか、青島ビールや白酒(しろざけ、ではない)など飲食品も売られていた。

中華街にある仁川華僑中山学校の壁には三国志演義の名場面が壁に描かれており、三国志の物語をたどることができる。坂の上から下へと物語が進んでいくので、仁川駅から中華街に入ってこの三国志壁画通りを目指すと物語の最後「死せる孔明生ける仲達を走らす」の壁画から逆に見ていくことになるが…
船の中で手に入れた地図によると、ここ仁川には中国の清朝期、韓国の李氏朝鮮期に中国領事館が建てられ、それを期に今日中華街がある北城洞・善隣洞の一帯が華僑が住むエリアになり、中国から輸入したモノを売ったり韓国の砂金を手に入れたりと交易の場ともしていたとのことである。しかしながら中華人民共和国成立後に中国当局が中国人の外国への移動を制限したことによりこの地域は急速に衰退していったとのことである。地図にあるかつての料理店があった建物の紹介の言葉を借りると「韓国華僑の悲哀」の時代となるのだろう。それから50年の時を経て、これまた地図に書いてあった言葉を借りると「韓中修交を契機に長い眠りから覚め」、2007年の地域特化発展特区指定など中華街復興計画とともにこの一帯も再整備され、中華街としての趣を取り戻しているということになろう。
この中華街付近には意外な街並みがあるのだが、それは後程。
2009年10月20日星期二
2009年・環黄海旅行記(18)続・煙台~仁川・船の旅-「香雪蘭(XIANG XUE LAN)」号-
前回の続き。煙台を水曜日に出港した「XIANG XUE LAN」=「香雪蘭」号は、翌日の午前中には仁川に到着する。快晴の空の下、本船は仁川に向けて進んでいく。
仁川に近づくに連れ、次々と小島が見えてくる。左写真では、かろうじて水面に姿を現している島、というよりは岩礁の上にも、航路標識が建てられている。
朝食はわかめスープ。4,000ウォン=24元だったと思う。
韓国の定食は、付け合わせのキムチなど漬物と小皿とご飯だけでも充分なくらいである。
船内に貼られていた、新型インフルエンザへの注意喚起と思しきポスター。日本の4コママンガのような絵で説明されている。
船内の通路には、乗船直後から客が持ち込んだ荷物が放置されていた。日本と韓国を結ぶ航路同様に、持ちきれないほどの荷物を持った客が少なからずいる。中国で商品を買いつけてそれをハンドキャリーで運んでいるのだろうか。
10時過ぎにいよいよ仁川港に入港である。フェリーの多くにはバウスラスターという、船を横移動させる装置がついているので自力で接岸することが出来るのだが、この「香雪蘭」にはそれがないのかあってもそれでは不充分なのか、タグボートの助けを借りての入港であり、まさに貨客船の入港という感じである。
入港時に、本船前方にあるコンテナを積載しているエリアの近くを通ることができた。コンテナや本船クレーンのあるところを見ると、貨客船に乗っているのだということを改めて思い起こさせてくれる。これより前方に入ることはできず、左側に横切って下船口へ向かう。
11時過ぎに下船。やはり短い距離をバスに乗ってターミナルへ移動するため、陸から船の全景をカメラに収めることはできなかった。
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中国と韓国の間には、この煙台~仁川間のほかにも複数の旅客船航路が運航されている。中国の韓国観光公社(韩国旅游发展局)のウェブサイトの旅游计划->入境交通->海运のページに、中国語ではあるが中国~韓国航路の概要が紹介されており以下の航路が運航されているようである。
・煙台~仁川 Hanjoong Ferry(韓国語)
・丹東~仁川 丹東国際航運有限公司(韓国語)
・大連~仁川 Dain Ferry(韓国語)
・営口~仁川 Yingkou Ferry(韓国語)
・秦皇島~仁川 Qinin Ferry(韓国語)
・石島~仁川 Huadong Ferry(中国語)
・連雲港~仁川 連雲港輸渡(中国語)(韓国語)
・青島~仁川 Weidong Ferry(中国語)(韓国語)
・天津~仁川 Jinchong Ferry(中国語)
・日照~平澤 C&Ferry
・龍眼~平澤 Dalong Ferry(韓国語)
・連雲港~平澤 連雲港輸渡(中国語)(韓国語)
韓国語のウェブサイトだと雰囲気なりスケジュール表や運賃表と思しきページから内容を類推するしかないが、ウェブサイトにある船の写真や絵を見ると今回乗ったような貨客船タイプのものもあれば、見慣れたフェリー型のものもありそれぞれに特徴がありそうである。日本に住みながらこれらに乗るためにはある程度長めの休みを取らなければならないので実現は難しそうだが、機会があれば他の中韓航路の船にも乗ってみたいものである。
2009年10月19日星期一
2009年・環黄海旅行記(17)煙台~仁川・船の旅-「香雪蘭(XIANG XUE LAN)」号-
上海に住んでいた頃、たまには船で一時帰国してみたいと思ったことがある。また、中国各地と仁川など韓国の港との間を結ぶ旅客船もあるので、中国~韓国~日本と船で旅行がてら帰国することが出来ればと思っていた。上海に住んでいるときには叶う事はなかったが、今回それに加えて下関~青島も船で渡り、旅行者としてではあるがかつて思った通り日本・中国・韓国を船で移動する旅を実現することが出来た。
今回は、煙台から仁川へ船で行くことにした。煙台~仁川間はHanjoong Ferryという会社が運航する「XIANG XUE LAN」=「香雪蘭」という船で結ばれているのだが、、この船を運航している会社のウェブサイトは韓国語だけのようで、何時船が出るかなど詳しい情報は何とかこのウェブサイトを読みこなすかさもなくば他をあてにしなければならない。煙台に着いてから中国側の会社である「烟台中韩轮渡有限公司」の電話番号を備え付けの電話帳で探し、電話して詳細を確かめることができた。事前に煙台発は月・水・金の18時30分だと聞いているがそれは正しいのか、運賃はいくらなのか、切符は当日ターミナルでも買えるのかを聞いたところ、スケジュールはその通りであり運賃は650元と750元であるとのことであった。また切符は当日ターミナルで買えるとのことであった。(注:上記ウェブサイトのHome->About us->C&K Ferry Linesのページに煙台側の連絡先が書いてある)
出港予定時間の2時間半前に煙台港国際旅客ターミナル(烟台港国际客运站)へ行き切符を買った。ウェブサイトで12万ウォンと紹介されている運賃は650元、14万ウォンと紹介されているほうは750元で、今回は750元の切符を買った。
まだ出港までには時間があると思ったところ、係員から早く乗船と出国の手続きをするように急かされた。さらに出国手続きの後で船に向かうバスに乗ったところ、ターミナルを管理している人民解放軍の兵士と思われる人から「荷物は(バスの下のスペースに入れず持ったまま乗れ!」「窓を開けるな!」などと口うるさく命令口調で言われた。もとより荷物は少ないので持って乗るつもりだったのだが、楽しかった煙台滞在の最後がこれでは「終わり悪ければすべて悪し」ということになってしまう。
岸壁には大連行きのフェリーも泊まっていたのでこの近くから乗るのかと思ったが、客を乗せたバスは岸壁を離れ一般車道に入り、10分ほど走ったところにあるコンテナ船のターミナルに泊まっていた「香雪蘭」号の隣で我々を下ろした。このバスを効率よく運航するために急かされたのだろうか?
以前も書いた通り、最近は国際条約の関係で国際航路の船が発着する岸壁を歩くことができず、自分が乗る船の写真を撮ることもままならない。左写真は船室内に飾られていたカレンダーに描かれていた本船の絵であるが、この「香雪蘭」号は後部に旅客スペースを配しつつ、前方にはコンテナを積むスペースと港に荷役設備がなくてもコンテナの揚げ下ろしをするべくクレーンを配備している。今回はコンテナターミナルからの出港であったが、フェリーターミナルでもコンテナを揚げ下ろしできるように、ということであろう。
この船の姿をウェブサイトで見て、フェリーとは異なる「貨客船らしさ」が見えたのも煙台~仁川航路に乗ろうと思った動機の1つである。
「香雪蘭」号の案内図。車を積むスペースはなく、やはりフェリーというよりは「貨客船」である。
急かされたこともあり、17時前に乗船してしまった。
写真は今回利用した2人部屋。他の客が来なかったので1人で利用することができた。部屋では韓国のテレビ放送を見ることが出来る。
あと、トイレが飛行機のトイレ同様に空気で吸い込むタイプだったのが目新しく感じた。
もう1ランク下の650元の部屋は4人で1部屋のようである。
2人部屋を1人で利用できたことからわかるように、乗客はあまり多くなかった気がする。乗客には中国人のツアー客や個人客もいたし、韓国人もいて後者のほうが多いかと感じた。
フロント。船内サービスを担っているのは韓国語のわかる中国人が殆どのようである。朝鮮族の方が多いのだろうか。
船内には「Casino room」もあり、スロットが並べられている。換金はできるのだろうか。
夕食は中国式と韓国式それぞれの定食があり(それぞれ1~2種類であるが)、今回は韓国式の「烧鲅鱼」=「サワラの煮込み」を食した。食堂では韓国ウォンも人民元も使用可能で、確か5,000ウォン=30元だったと思う。
なかなか美味しかった。韓国料理というと焼肉・プルコギや冷麺、汁物でもサムゲタン・ユッケジャンクッパなどを思い浮かべるが、魚を材料にして韓国料理独特の味付けをするのもとても良いと思う。
缶ビールやジュースの自動販売機。こちらは韓国ウォンのみが利用可能。350ccのHiteビールが1,500ウォンで、このときは韓国での値段がわからなかったのでそのくらいかと思ったが韓国で買うよりは高いようだ。日本と違い中国・韓国ではビールに関しては免税のメリットはないということだろうか。
娯楽室。本棚にはマンガ本がたくさん並んでいるが、日本でお馴染みのものがハングルで並んでいる。後で韓国の本屋に入ってみたが、韓国で売られているマンガの多くは日本のものの翻訳であった。
売店や免税店。開いている時間は限られているのだが、売店で飲み物を買おうとしたらその限られた営業時間よりも早く店じまいをして鍵を閉めてしまっていた。人民元しか持っておらず自動販売機では飲み物を買えないので売店に行ったのだが、担当者が鍵の管理もしているようでフロントに掛け合っても店は開けてもらえず、結局フロントでいくばくかの人民元を韓国ウォンに換えてもらって自動販売機で買うことになった。このあたりの営業感覚はまだまだといったところか。
写真が多くなったので、到着時の様子や中国~韓国航路全般のことは後程。
2009年10月18日星期日
2009年・環黄海旅行記(16)煙台・海岸沿いの建築物
前に書いたが、煙台山公園から海岸を見渡すと古そうな建物がビルに囲まれて並んでいるのが見えた。このあたりはどんなところなのだろうかと思ったが、煙台の街歩きの最後にこのあたりを歩くことができた。
張裕酒文化博物館から大馬路を海岸沿いに歩いたところにある広場。
この広場の一角に、「十字街歴史街区」と掲げられた通りがあり、閉ざされた門の奥にある建物には「Chile」「South Africa」や「Australia」等、ワインの産地の名前が掲げられていた。通りの部屋は全て改装中のようだったが、ワインの飲めるレストランやワインショップが並ぶ予定なのだろうか。
海岸に程近いところにも、ビルに囲まれるように古そうな建物が並んでおり、中には市の文化財であることを記したプレートがあるものもある。これらの建物は、現在も会社やレストランとして使われている。
左手前の尖った屋根を持つ建物は崇正中学旧址。1900年代初めにキリスト教団体により設立された男子中学なのだとか。
奥に見える建物はかつてのロシア領事館。今は派出所。
かつてのロシア領事館から海岸を目指す途中には、子どもが水遊びをしている像があった。
海岸を煙台山公園の方に向かってしばらく歩くと、また古めかしい建物が並んでいるのを見つけた。「広仁路歩行街」という名前の通りのようだ。
いちばん手前の建物は星がついているから共産党関係の建物かと思ったが「生明电灯股份有限公司」なる会社の跡だとのこと。
通りの向かいに建つ手すりが目立つ建物は、旧養正小学址。今は子ども向けの音楽学校になっているようで、ピアノの音と走り回る子ども達の足音と歓声が聞こえてきた。
この広仁路歩行街にある建物の多くが、歴史的建築物として文化財に指定されている。が、上の音楽学校を除いて営業活動をしているところは殆どなく、多くが改装中で内装を整えていたりしていた。
上海の新天地のように、ここ広仁路も歴史的建造物を生かした煙台の観光スポット・行楽スポットにしようということなのだろうか。
これで煙台の街歩きは終わり。事前に調べていれば違う場所も含めてもっとあちこち行くことができたのだろうが、それでも早くに外国に門戸を開き、その名残を街並みに残している煙台の街は歩いていて気持ちが良かった。日本人にとっては馴染みの薄い場所であろうが、それでもかつてこの地に日本領事館があったり日本企業が古くから活動していたりしていた場所であり、青島より知名度は劣るがもっと知られても良い場所だと思う。
2009年10月17日星期六
2009年・環黄海旅行記(15)煙台・再び海岸を見る
前回の続き。張裕酒文化博物館の見学の後、再び煙台の海岸へとやってきた。
1800年代に外国に門戸を開いた煙台だが、その後中華人民共和国になり文革が終わり、改革開放が叫ばれた1984年には開放都市に指定されている。清朝期に外国との窓口になり、改革開放の波の中でも再びいち早く外国へ扉を開き、時を経て同じ役割を担ったといえる。海岸に置いてある石に、開放都市に指定されたことを記すレリーフが埋め込まれている。
海岸の殆どは柵で海と隔てられているが、このように海に足をつけることができる場所もある。このときは引き潮だったので多くの人が波打ち際に近づいている。
海岸では小さな魚が釣れるようで、釣れる度に針からはずしている人がいた。
海岸の通りには、石で作った亀や蟹、ヒトデが埋め込まれているところがある。
煙台から黄海を渡るとその先には大連があり、煙台と大連を結ぶフェリーや旅客船を頻繁に沖合に見ることができる。
煙台の海岸の建築物や通りについては、また後程。
2009年・環黄海旅行記(14)煙台・張裕酒文化博物館
朝陽街と北馬路の交差点から北馬路を海岸方面に向かって歩くと、やはり大きな車道である解放路との交差点で「張裕集団」と書かれた建物が見える。この奥に「張裕酒文化博物館」という、ポルトのワイナリーよろしくこの会社のワイン作りの歴史やワインにまつわる展示を見ることができる場所がある。
2種類入場券があり、高いほうの入場券を買うと小さいボトルに入ったブランデーを貰うことができる。いずれの入場券でもワインの試飲ができる。
張裕集団の創始者、張弼士はインドネシアで商売に成功した人物で、後にフランスのボルドーと同じ緯度にある煙台に注目してこの地に葡萄を持ち込みワイン工場を作ったのだとか。何人かの外国人技師を雇い中にはすぐ辞めてしまった人もいるが、外国公館の職員と掛け持ちでこのワイン工場に携わり製造技術を伝授し育てた外国人がいたとの展示があったと記憶している。
館内ではこうした張裕集団の歴史や彼らが山東省各地に持つ葡萄畑や工場の紹介があり、地下に入ると木樽でワインを保存している場所を見ることができる。
館内には世界のワインにまつわる展示もある。日本にまつわる展示は残念ながらなかったが、世界で1人あたりワインの消費量が多いのはフランスでその次にイタリアとポルトガルが続き、スペインはフランスの6割ほどで意外にもスロベニア・クロアチア・スイスよりも少ないのだとか。
張裕集団のワイン、正直言って上海に住んでいるときには気にしたことがなかった。上海に住んでいた時にレストランでワインを頼むときは、大概「長紅」ブランドのワインであった。それ以外のワインは妙に甘かったり子ども用のシロップ風邪薬のような味がして、正直感心しなかった。
今回試飲したワインは白はフルーティーな感じだったが「普通のワイン」で、これが廉価に手に入れば中国でも日々ワインを飲むことが出来たのだが、と思える味であった。
2009年10月16日星期五
2009年・環黄海旅行記(13)煙台・朝陽街付近
前回の続き。煙台を歩いたときの様子をぼちぼちと。
金海湾酒店を出た付近。朝早くから海岸にやってきて釣り糸を垂れている人が少なからずいる。
かつて煙台は「芝罘」という地名であった。その名を冠した芝罘倶楽部なる建物。1800年代には当地の外国人の社交場だったのだとか。今は煙台山賓館というホテルの一部。
煙台山賓館から煙台山公園の入り口を目指すときに通る、海岸街。こちらも由緒ある建物が並んでいるようだが、今は当地の魚介類を出す料理店が並ぶ。
料理店のほかに、切り紙や貝殻を売る店があるのが目を引く。
煙台山公園の入り口にある売店も、美孚洋行なる会社の跡である。
海岸街を煙台山公園の入り口とは逆に曲がると、朝陽街という古い建物が並ぶ通りがある。
入り口向かって左はかつての順益商行なる会社の跡。
朝陽街の街並み。歩行者天国になっていて、飲食店は少なく商店が多く軒を連ねている。
海岸が近いということもあり、店頭に釣竿を並べている釣竿屋がある。
順太街からその先にある海関街との交差点にある、旧岩城商行跡と名前の付いた建物。日本の会社のようである。
再び朝陽街へ。写真左が五洲大薬房(五洲大药房)旧址、右は宝時造鐘厰(宝时造钟厂)旧址。何れもいまでも商店である。
事前にあまり煙台の街並みのことを調べずに街を歩き、また特に当地にまつわる本を買ったりしなかったので朝陽街のそれぞれの建物の由来はあまりわからないのだが、商店や会社の跡が並んでいるところを見ると、煙台山公園やそれに近いところがかつての領事館や社交場など官庁街だったのに対して、朝陽街はその領事館エリアに続く通りに店を構えた外国の会社が集まっていたところ、ということであろうか。上海の街並みについては住んでいるときに何冊か本を買って調べたことがあるが、煙台の街のことやそこに建つ建物の由来なども、調べてみたいものである。
朝陽街は、北馬路という車道と交差したところで終わる。その北馬路の向かい側に、やはり歴史があるであろう建物の中に店を構えている商店があった。国旗を売る店のようで店頭に各国の国旗が並んでいたが、早くに外国との窓口となった煙台の街で国旗が並んだ建物を見るというのも、煙台らしい光景だと思う。
2009年10月15日星期四
2009年・環黄海旅行記(12)煙台・煙台山建築群
煙台の滞在は一泊だけで、明けた翌日の夕方には仁川行きの船に乗る予定である。1日足らずではあるが、煙台でもあちこち足を運んでみた。まずは煙台山の建築群から。
今回泊まった金海湾酒店の上に、小山とその上にそびえ立つ灯台が見える。このあたりに、1800年代後半から1900年代前半にかけての外国の領事館などが保存されている。
煙台は1858年の天津条約で外国に開放され、日本や欧米諸国がこの地に領事館を開き、外国から商人が来て会社を営んだりした。当時の名残りがこの煙台山やその付近に保存されている。
煙台山公園に入ってすぐのところにあるのは、かつてのアメリカ領事館。内部は博物館になっていて、開港から中華人民共和国になるまでの近現代の煙台にまつわる展示をしている。
園内の案内には「聯合教堂」の名で紹介されていた建物。この地で働いていた欧米諸国の人たちのための教会だったのだろうか。
中国の女性作家・冰心が父親の仕事の関係などでここ煙台に住んだことがあるとかで、かつての「東海関総監察長官官邸」が冰心にまつわる博物館になっている。
この白い建物は旧東海関副税務司令官邸。内部では京劇にまつわる展示がなされていた。
煙台には日本も領事館を構えていたが、当時の領事館は博物館になっていたが訪れた日は非公開であった。領事邸宅はおそらく右写真の柵の奥にあるようだが、こちらにも入ることは出来なかった。
旧英国領事館の前の芝生には、とても小さな鳥が群れをなして停まっていた。写真だと小ささがわかりにくいがとても小さい。中学生の頃見た英語の教科書に出てきたhummingbird=ハチドリとも違うし、何という鳥なのだろうか。
煙台山のてっぺんには灯台があり、エレベーターで上まで登ることができる。
灯台の上から港方面を見る。煙台と大連の間でフェリーが頻繁に運航されているが、写真の白い船もその中の1隻なのだろう。
反対側の海岸方面を見下ろす。海岸線と高層ビルにはさまれるように煉瓦色の屋根の建物が並んでいるのが見えた。このときはこの建物も歴史があるものなのか、あるいは当時を模したレストランか何かなのかはよくわからなかった。後からこの辺りも歩いてみたが、古い建物が並ぶ通りの中にはそれらを生かして上海の新天地のような場所にしようとしているところもあるようである。このあたりを歩いたときの写真は後程。
ここ煙台山公園でも、結婚写真の撮影をしているカップルがいた。海辺の欧風建築、そして海をバックに撮影というのはカップルにとって人気なのだろうか。
2009年10月14日星期三
2009 東京・中国映画週間
10月17日(土)から10月25日(日)にかけて新宿と渋谷で「2009 東京・中国映画週間」と称して中国映画が複数上映されるとのことである。オフィシャルのウェブサイトはこちら。
実は先の中国~韓国旅行の際に青島から煙台に移動するバスの中で見た映画のことを調べていたらこの「2009 東京・中国映画週間」のウェブサイトを見つけ、その映画がこの「2009 東京・中国映画週間」で上映されるのを知った次第である。バスの中で見たのは『夜市』(日本語題名:ワンナイト・イン・スーパーマーケット)という映画で、深夜の超市=スーパーマーケットを舞台にそこの店員と彼らに絡んでくる客やオーナーや強盗!が繰り広げるコメディー映画である。馬鹿馬鹿しくはあるのだが、バスに乗っている時間をクスリと笑いながら過ごすには面白い映画であった。同学の間では『非誠勿擾』=『誠意なる婚活』が話題のようであるが…
芸術の秋、10月は他にも東京国際映画祭があるのだが、ここ何年かこの時期は自由に休むことができなかったり、あるいは上海にいた時期もあったりで映画祭を楽しむことができない。1日くらい映画を見ることが出来れば良いのだが、と思う。
2009年10月13日星期二
2009年・環黄海旅行記(11)青島・花石楼
再び海岸付近へと戻り、バスの出発時間までの残り少ない時間で花石楼を訪れた。海岸沿いの八大関風景区というエリアにかつて外国の領事館や外国人住宅が集まっており「万国建築博覧区」と称されているとかで、この花石楼もその1つである。かつてはドイツ総督の別荘だったが一時期蒋介石もここを利用していたことがあるとかで、館内には中国にしては珍しく?「蒋首席玉照」「蒋夫人玉照」(ご真影、くらいの意か)と表示された往時の写真がそのまま残っていたりした。
塔の頂上から見た海岸の風景。
確かに花石楼はヨーロッパの古城を思わせるたたずまいであり、それこそ結婚写真の撮影には相応しそうだが・・・
眼下の岩肌に結婚写真を撮っているカップルがたくさんいた。ウエディングドレスが汚れるかもとかそうしたことは気にしないのだろうか。思い出の結婚写真のためならこのくらい、ということだろうが、ついていくカメラマンや写真館の人は大変そうである。
駆け足の上ガイドブックでの下調べもせず歩き回った青島だったが、印象に残る風景が多く良い街歩きができた。四方路にあるバスターミナルから煙台行きバスの最終便に乗り、青島とはお別れである。
煙台へのバスは2階建ての3列シートで、座席が広く快適な3時間のバス移動であった。中国の長距離バスは座席指定があってもいい加減というイメージがあるが、今回は切符に定められた席に座るよう係員に求められたのが意外であった。
2009年10月12日星期一
2009年・環黄海旅行記(9)青島・上海路から青島港へと歩く
青島に着いたときには港からホテルまでタクシーで移動したのだが、その際の風景がやはり気になったので青島滞在最終日の午後にそのあたりを歩いてみようと思い、車窓から見えた教会がある交差点まで行ってそこから港を目指して歩くことにした。
広い車道である胶州路と上海路の交差点にある赤レンガ色の建物はセント・ポール教会。ロシア人による設計で1940年前後に建てられたとのこと。
教会がある胶州路x上海路の交差点で車道を別れ、やや狭い上海路を歩くことにする。交差点からすぐのところにある中学校(日本の中学と高校に相当)は、1900年に宣教師がこの地に建てた礼賢学校に由来するのだとか。他の建物に囲まれておりまた学校の門から先は木々に覆われていて、中をよく見ることはできなかった。
この辺りの建物も青島の他のエリアで見た建物同様に土色の壁が多いのだが、上海路から西側へ向かって下っていく通りにある建物は白い壁に灰色の屋根のものが多く、他とは異なる色使いであった。港町の日差しに映える白である。
上海路から武定路へと、到着時に登ってきた道を下っていくことにする。午前中に金口路で見たのと同じ色使いの建物が並んでいる。
武定路にある幼稚園。欧風の屋根に派手な色使いの壁、そして塀には青島の港近くらしく海をテーマにしたかわいらしい絵が並んでいる。
屋根の形や色、そして部屋の並びなどは上海の旧租界エリアに残る建物同様にヨーロッパの影響、青島にあってはドイツの影響もあるだろう。
店のショーウィンドーに毛沢東の肖像画が貼ってあった。何かと思ったらミリタリーショップのようである。
包頭路の坂道を下っていく。旅館の前を学校帰りの小学生が歩いている。中国の小学校では親が学校まで迎えに行って一緒に帰るのが一般的なのか、午後3時くらいになると小学校の門前に親や祖父母などが大勢詰め掛けているのを見ることができる。
60周年の国慶節がもうすぐということもあり、港湾関係の役所の建物や線路沿いの壁には国慶節を祝う飾り付けがしてあった。
旅客ターミナルへ到着。向かいの小さな飲食店や商店にはロシア語やハングルの表記も見られたが「外国語ばかり」ということはなかった。
2009年・環黄海旅行記(8)青島駅界隈
租界時代の雰囲気を残す魚山路から再び海岸沿いの太平路に行き、桟橋へ戻るとそこから歩いて青島駅に行くことができる。今回は青島から鉄道で移動することはないのだが、青島駅の駅舎は街の雰囲気に逆らわずに煉瓦色の屋根に覆われた落ち着いた色合いの建物である。
青島駅は1901年の開業とのことである。昨年改装工事が完了し新装オープンとのことであるが、ドイツ風の雰囲気を醸し出した造りになっている。
駅の南側から西側にかけて。このあたりが新しいのだろうか。アーチ上に凹んだ中からはホームの様子を見ることができる。
駅の近くでは、リアカーや歩道にモノを並べて売っている人の姿を多く見かける。かりんとうのような芋菓子をリアカーに載せて売っている人がいた。
「世界上最牛的火机」と称して売られていたライター。座っている人と比べてその大きさに注目。
青島駅のすぐ近くは再開発の対象になっているのか、建築中の高層マンションがたくさん建っていた。このあたりはかつてどのような街並みだったのか、気になるところである。
駅から程近いところにある鉄道局の建物。これも歴史的建造物とされているようだが詳細はわからず。庭の緑と建物が美しく、青空に映えている。
青島へ向かう船上からこのあたりを見て、煉瓦色の屋根が歴史を感じさせてくれると思ったのだが、歩いてみると新しい街、新しい建物の間に古い街並みや建物が残っているという感じであった。
2009年・環黄海旅行記(7)青島の細い道に迷い込む
前回の続き。1900年代前半の雰囲気を残す魚山路界隈を歩いていたら、そこから枝分かれする道の奥にさらに良い雰囲気で住宅が並んでいるのが見えたので、その細い道に入ってみることにした。
金口二路と通りの名前が変わり、家並みに導かれるままにこの道からさらに枝分かれした坂道を登っていく。
このマンションも、劉知侠という中国の作家の故居として歴史的建造物に指定されている。

このマンションから坂道を振り返ると、看板の裏側の向こうに海岸が見える。右写真の通り、桟橋付近から青島ビールの看板とその奥に広がる街並みを見たのだが、ここがまさにその街並みなのである。海岸から見て思ったのに相違ない、静かな中に歴史を感じる通りであり街並みである。
再び家並みに導かれるままに歩いていると、金口一路に突き当たる。このまま先に進むと坂を下りて海岸沿いに着きそうなので、金口一路を戻るように歩くことにした。
曲面と平面、それに屋根の形や色それぞれに良い雰囲気を出している住宅。
このあたりを歩いていて気付いたのは、各家々の前にゴミ箱が設置されていることである。この街ではごみの回収制度が整備されている、ということだろうか。
上から3番目の写真のところに戻り、登ってきた坂道より1本東側の坂道を下って再び魚山路に戻る。
租界時代の建物を大事に使い、そして当時の雰囲気を大事に残している街並みは、上海のかつての租界の街並みと同様である。この金口一路~金口三路は上海に住んでいた頃に歩いた街並みを思い出させてくれて、懐かしい思いになった。
2009年10月11日星期日
2009年・環黄海旅行記(6)続々・青島ぶらりぶらり
青島の郊外にある労山(崂山)は、「海上第一名山」と呼ばれるほどの場所だそうで、崂山啤酒や崂山可乐などその名がビールや清涼飲料水の名前に冠されておりこの地を象徴する地名にもなっている。青島滞在の最終日に崂山へ行こうとも考えたが、ツアーに参加するのが一般的なようで個人で公共交通機関を乗り継いでまわるのはなかなか難しそうであった。ツアーへの参加は申し込んでなくまた夕方には煙台へ向かうバスに乗らなければいけなかったので今回は崂山へは行かないことにして、タクシーやバスで通りがかったときに街並みや風景が気になったところへ再び行き、そこを歩くことにした。
太平路の魯迅公園から程近いところにあるこの家は、かつて日本人の商人が住んでいた住居だそうである。
太平路に面した小学校。校庭を囲む壁は重厚だが校庭は新しく整備されていて、子ども達の賑やかな声が聞こえてきた。
近くに教会のような尖った屋根の建物が見えたので行ってみたのだが、門をくぐると毛沢東の筆による碑が建っていた。この青島徳国監獄旧址博物館はドイツの租界だった頃に外国人を収容する監獄として使われ、その後日本軍が監獄として使ったとのことである。戦後すぐの頃は今度は日本人戦犯がここに収容され、その後1995年まで留置所など中国の公安施設として使われたとのことである。門地主は様々に移り変わったが一貫して留置所や監獄として使われた建物、ということになる。
内部には各時代を再現した部屋や、日本軍が使ったとされる水牢が公開されている。
このかつて監獄があった場所は今はホテルになっていて、博物館はその敷地の中にある。かつての監獄の隣に泊まる、というのはあまり気分がよくなさそうであるが…
海沿いの道から一本裏になる、魚山路を歩く。「中国紅卍字会青島分会跡」と紹介されている建物。西欧・中国・イスラムそれぞれの様式が混ざっているのだとか。門が閉まっていて外から眺めるのみ。
中国の文化人や学者がかつて住んだ場所、と紹介されている建物がこのあたりには多く並んでいるが、その多くが今でも現役で使われている。
こちらは文学者・梁実秋の故居。青島大学で教えていた時期があるのだとかで、この家で外国文学の翻訳に励んだと紹介されている。
江蘇路社区という名前の社区の入り口にて。車で通りがかったときは橋の上からこの社区を見る格好になり、土色の壁と煉瓦色の屋根の建物が並んでいるのが印象に残った。
中国海洋大学の建物とキャンパス。海洋都市・青島にあって「海洋」の名を大学名に冠しているが理系・文系問わず様々な学部・学科を持つ総合大学である。
また写真が多くなったので、続きは後程。
2009年10月10日星期六
2009年・環黄海旅行記(5)青島ビール博物館(青岛啤酒博物馆)
前回の続き。青島の地図に「青岛啤酒博物馆」の文字を見つけたので、ここへは是非行っておこうと思った。直前まで前述の通り海岸沿いにいたのだが、調べて電話をすると午後4時半までに行けば見ることができるとの返事だったので、タクシーに乗って青島ビール博物館へと向かった。
「ビール博物館」であるだけに、もっと遅くまで開いていれば中を見た後で心置きなくビールを、となるのだろうがそれをしたら酔っ払いが増えるのだろう。
博物館の入口。
1903年にイギリスとドイツの商人がこの地にビールを製造する会社を作り、ドイツの製造技術を使ってビールを作り始めたのが今日の青島ビールにつながるビール作りの流れである。その後第1次世界大戦で山東半島への権益を認められた日本の資本により買収され、「大日本麦酒」の工場としてヱビス・サッポロ・アサヒのブランドでビールを生産していたこともある。
2003年が青島ビールの100周年に当たるとかでその記念のモニュメント。
古い建物を利用した博物館では、青島ビールの歴史や現在の活動、代々の瓶やラベル、広告を見ることができる。日本時代のポスターは「いかにも日本のその時代」と言う感じの絵であったのが印象的である。時が流れて1990年代の台湾でのテレビCMも日本のお座敷でビールを飲むものであったが…
代々の瓶やラベルを見ていると、長きにわたり多種多様な商品が青島ビールから送り出されてきたのがわかる。
もう1つ別の建物では、青島ビールのかつての製造工程を再現しているほか、現在の製造ラインの一部も見ることができ、目の前で青島ビールが瓶つめされていくのを見ることができた。
見学コースの途中では、無濾過ビールを試飲することができ、
見学の最後にもう1度ビールを試飲することができる。中国ではビールを頼むと冷えていないものが出てくることも多いが、ここではどちらも冷えたものが出てきた。
この青島ビール博物館の前の通りは「啤酒街」と名付けられており、博物館の隣には缶や瓶を使ったり模したりしたオブジェが並んでいる。
中華人民共和国成立60周年の国慶節前ということで、広場では花を使った飾りつけの準備をしていた。
博物館の前の通りには、オープンスペースのある中国料理店が並んでいる。ドイツを始めヨーロッパ各地にあるオープンカフェを模したものだろう。テーブルに並んでいるのは中国料理ということでヨーロッパとは違っているが…
2009年10月9日星期五
2009年・環黄海旅行記(4)続・青島ぶらりぶらり
前回の続き。青島の天主教堂から再び海辺を目指して下っていくことにした。この海岸へ向かう安徽路にはさまれるように老舎公園があり、人々が中国囲碁やトランプをしたりベンチでくつろいだりしている。
ベンチに座っている女性がさしている日傘が目に留まった。日頃使う傘にこのような綺麗な飾りつけをしているのを見たことがない。
海岸の通りの一本奥を通る広西路には、租界時代の名残をとどめた建物が並んでいて今でも現役でオフィスや商店として使われている。
少し東側にもどったところに、青島市人民大会常務委員会の建物が見える。かつてのドイツ総督府、そして日本軍青島司令部であった建物である。
ここから海へ向かって伸びる短い通りが青島路。「青島市青島路」なのだが、都市に同じ名前の通りというのはあまり見たことがない。上海に「上海路」はあっただろうか。
この青島路の終点にあったビアガーデン。海を見ながらビールを飲むことができる。
海岸沿いの通りである太平路にも、洋館形式の建物が並んでいる。
太平路を西へ歩くと、「桟橋」と呼ばれる場所がある。海に向かって突き出た堤防の先にあずまやが建っている。青島ビールの缶や瓶のラベルに描かれているシンボルマークは、この桟橋なのだとか。写真は左側に小青島を望む桟橋。
桟橋の根もとでは、遊覧客を乗せたモーターボートが駆け足で付近を走る一方で足漕ぎボートに乗った2人はのんびりと、というところであろうか。
桟橋付近から見た青島の海岸の様子。青島ビールの看板がかかっている奥に見える、煉瓦色の屋根が映えている街並みは歩いてみたいものだと思った。
この他にも青島ではあちこち歩いたが、それは後程。
2009年・環黄海旅行記(3)青島ぶらりぶらり
出張で青島に来たことはあるが、自由に青島の街を歩き回るのは初めてである。今回はガイドブックを持っていないので、地図を買ってまずは見どころと思しきところを適当に見てまわることにした。
ここ青島は昨年の北京五輪でセーリング競技の会場だったが、オフィス街に程近いところに「青島五輪セーリングセンター」があり、敷地内にはホテルや博物館、ヨットハーバーがある。
中国では広大な国土の中で海に面している場所は相対的に多くはなく、ヨットやボートを趣味にしている人は少ないだろう。
そのまま西に歩くと五四広場に着く。広場ではウイグル族と思しき若い人が集まっていた。遠く離れたところから青島に来た人同士で一時を過ごし情報交換などをしているのだろうか。
タクシーに乗り、古い街並みや風景区がある市の西側へ。魯迅公園から突き出た堤防を渡った先には、灯台のある「小青島」と呼ばれる島がある。
堤防のたもとには海軍博物館がある。退役した潜水艦や軍艦を見ることができるようだ。
海岸沿いに歩いて少し登ると、康有為故居がある。青島にはこうした中国の著名人がかつて住んだという家があちこちに残されており、青島の歴史を伝えている。
昼休みを家で過ごすのか、子ども達が勢いよく駈けていった。
通りで羽根蹴り(踢毽子)をしている男女がいた。ラリー?を続けるのはとても難しそうである。
青島の街も坂が多い。今年は坂の多い街ばかりを旅している気になる。通りにも石畳が残っているところがある。
丘の上にある、青島迎賓館。かつてのドイツ提督官邸で、往時青島で暮らしていたドイツ人の写真が館内に貼ってあったり、当時の内装が保存されたりしている。
このあたりの風景をキャンバスに描いている人がいた。趣のある絵になりそうである。
青島では写真のような小型の三輪自動車をよく見かけた。駅やバスターミナルなどに停まっていて客待ちをしている三輪自動車タクシーが多かったが、普通のタクシーより参入が容易なのだろうか。
走る姿を見ているとよく揺れていて、乗り心地はあまりよくなさそうである。
さらに西へ向かって歩き、天主教堂を目指す。途中の交通警察の建物もそれなりの歴史を持っていそうである。
天主教堂。青島の街のあちこちからこの天主教堂を見ることができる。
天主教堂の前の広場では、多くの新婚カップルが写真撮影をしていた。ヨーロッパの雰囲気を醸し出す教会というのは中国のカップルにとっても「絵になる」魅力的な場所なのだろう。
写真が多くなったので、続きは後程。
2009年・環黄海旅行記(2)続・下関から青島へ -オリエントフェリー「ゆうとぴあ」-
前回の続き。下関と青島を結ぶフェリー「ゆうとぴあ」に乗ったのだが、その船内を紹介。
今回利用したのは2等A船室。2段ベッドだが下段のみが利用されており、上段は荷物置きに使うことができる。
こちらは2等B船室。国内のフェリーでもよくある大部屋スタイルである。
このほか個室である特等・1等船室がある。
自動販売機。船内ではビールが免税価格になり、500ccの缶ビールを250円で買うことができる。そのほか缶ジュースも国内と同じ値段で売っている。
青島航路だけに青島ビールが気になるが、こちらは売店で売られており、売店が開いている時間に100円で買うことができる。
青島の日本語フリーペーパーも置かれている。これが青島で流通している全てなのかはわからないが、置いてあるものは夜のクラブの広告が多く、記事の内容・記事や広告の日本語のレベルなど上海のそれとは差があるように感じた。
船内にはジムもある。卓球台があるのは青島航路ならではか。
船内には大浴場もあり、清潔な風呂につかることができる。特等・1等の乗船客には専用の大浴場がある。
船内には食堂があり、朝・昼・晩とそれぞれ1時間半くらいずつオープンしている。食堂に限らず売店や大浴場など船内の施設は開いている時間が限られているので、注意が必要である。
食堂のメニュー。食券制であり中華のほか、カレーや丼といった日本料理も提供されている。食堂に限らず船内で使えるのは日本円のみであった。
左は初日の昼食で食した「中華定食」(500円)。
朝食は無料で、右写真のように中国式にお粥や油条などを食する。
今年の春にこの下関~青島航路は1,000航海に達したとかで、食堂には1,000航海達成祈念の横断幕が張られていたし、ロビーには下関港から贈られた記念の盾が飾られていた。
航海中は強風のためとかでずっと船外に出ることができなかったが、青島到着直前にアナウンスがあり船から青島の街をみることができた。もっともこの日は雨模様で視界が悪く、青島の街はもやがかかった向こうにぼんやりと見えるのみであった。
風景を背景にポーズをとって写真を撮っている中国人の乗船客が少なからずいたが、彼らにとっては馴染みの風景なのだろうから天気がよくない中でわざわざ写真を撮ることは何か意味があるのだろうか、と思った。
「青岛港欢迎您」の看板が見えると、いよいよ青島港に到着である。
港には別のフェリーが停泊していた。「NEW GOLDEN BRIDGE 5」(新金橋5)というフェリーで、青島と韓国の仁川を1晩で結んでいる。
新金橋5号の前方に本船は着岸。定刻の16時より若干早い時間であった。
ここで下船して入国審査に向かうのだが、先の記事で書いたとおり最近は国際条約の定めで岸壁を歩くことができず乗客はバスで移動するのだが、この効率がよくなく下船に時間がかかった。
入国審査の前の検疫では、新型インフルエンザの絡みからか泊まるホテルの電話番号など連絡先が厳しく求められ、通り一遍ではない検査だった。
港の外に出たときは既に16時を過ぎていた。港では両替はできず、近くの交通銀行を教えてもらったが日曜日は16時で閉まってしまい両替はできず、さらにATMも見当たらず現金を引き出すことができなかった。通りの店の人に聞き、線路下をくぐり陵县支路→包头路と歩いた先にあるコンビニにATMを見つけてようやく現金を調達することができた。中国に生活の基盤があったり中国のことを知っているならともかく、旅行者にとっては目先の現金がなく港からの移動もままならず困惑するのではなかろうか。あるいは実は港のどこかに両替所があったのだろうか。
コンビニのATMには、「近くに臨時の電話が置いてあっても信じるな」という警告が書かれていた。中国の振り込め詐欺には「故障したときの連絡先」を装って現金を振り込ませたりする手口があるのだろうか。
2009年10月8日星期四
2009年・環黄海旅行記(1)下関から青島へ -オリエントフェリー「ゆうとぴあ」-
しばらくポルトガル旅行のことばかり書いてきたが、先月の5連休に2日休暇を加え、さらにその後の土日と9連休の休みを取りまた旅行に行ってきた。今回は下関からまずフェリーで中国・青島を目指し、その後山東半島を横切り煙台へ行ったあとで船に乗って今度は韓国・仁川へ行き、最後は釜山から博多へやはりフェリーで戻ってくるというルートで、船中で3泊する旅であった。
まずは下関から青島へ向かうフェリーの様子から。
下関駅から歩いて5分、下関港国際旅客ターミナルが見えてくる。建物の右には、やはり下関から出発する釜山向けのフェリー、釜関フェリー(関釜フェリーの韓国側の船)のSEONG HEE号の煙突が見える。
ここ下関港から週2階、毎週水曜日と土曜日に青島への船が出ている。オリエントフェリーが運航するこの青島向けフェリーは正午に下関を出発し、翌日の午後4時に青島着というスケジュールである。
切符は旅行代理店で買うことが出来るほか、当日下関港で買うことができる。予め旅行代理店で買ったほうが安心ではあるが手数料がかかることがあるので、春節など中国への帰国シーズンで混むときでなければ窓口で直接かうのも一策である。(上記スケジュールは2009年10月現在)
船内には関釜フェリーの模型が飾られていた。オリエントフェリーと関釜フェリーは同じグループの会社である。
ターミナルの中には下関と青島の友好都市30周年を祝う垂れ幕が飾ってあり、また下関から船が出ている各都市の写真も飾られていた。
こちらは下関へ来る韓国の人への案内。最寄りの教会の住所も教えているのがユニークである。
今回乗ったフェリーは「ゆうとぴあ」号(UTOPIA)。いざフェリーに乗り込むのだが、最近はテロ防止とかで国際条約が厳しく国際航路の船に乗るときには岸壁を歩くことができず、わずかな距離をバスに乗って移動する。船の写真もガラス越しにしか写すことができない。
定刻より15分くらい早く、本船は青島へ向けて出港。まずは後進をしながら岸壁を離れる。
同じグループで運航する、「ゆうとぴあ2」(UTOPIA 2)。先月まで下関と蘇州・太倉港を結ぶ航路に投入されていたが、今月から別の船がその航路に入ることになり今は係船されて次の出番を待っているのだとか。
この船は関門大橋はくぐらず、関門海峡を背にして玄界灘方面へ向かう。北に関門大橋を見る格好になりまたターミナルの位置を誤解していたので豊後水道方面へ向かうのかと思ってしまったが、関門海峡は入り組んでいるのでどこへ向かうのか把握するのが難しい。
出港してすぐ、右側に巌流島を見ることができる。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の舞台として名前には聞くが、目にするのは初めてである。島には往時の事を記録する石碑や像があるらしいが、船から見ると工場を背にする小さな島である。
出港後、関門海峡を抜けるまでの約30分は船のデッキにいることが出来たが、その後は強風のためとかで青島に着くまで船外に出ることはできなかった。
写真が多くなったので、船内の様子や青島着の話は後程。
2009年10月6日星期二
台風に想う
先日格闘技観戦のために後楽園ホールに行ったときに、通路に「台湾台風復興支援」と銘打たれた女子プロレスのポスターを見つけた。ポスターには「後援 台北駐日経済文化代表処」と書かれてあり、台湾の駐日機関のパックアップも得ているようである。帰って調べたところ、LLPWという団体の選手を中心に10月12日に後楽園ホールで行う興行にこの名が冠せられている。
台湾でテレビをつけるとケーブルテレビにプロレスの専門チャンネルがあり、女子プロレスは見たことがないがプロレスの録画放送をやっているのを見たことがある。が、何故か日本のそれは古い試合の録画が多かった記憶がある。またプロレス団体の中には台湾興行を打つところもあり、台湾でも日本のプロレスは馴染みがあると言える。
私はその時間に別のスポーツを見に行く予定があり「台湾復興」の名を冠した興行を見ることができないのだが、「台湾」の名を、「台湾復興」の名を興行に冠するプロレスに敬意を表したい。
台風や地震など災害の直後には緊急性を要すること、まずは人命救助でありその後は食糧や仮住まいの確保といったことに重点が置かれるが、こうした段階では人々の注目が集まりやすくそれゆえに金銭的援助も集まりやすくこうした活動に供されるものである。問題は被災者のその後の長い人生に渡る部分であり、例えば被災した子どもが両親の生活基盤の復旧が不充分であったりそもそも親が災害で亡くなっていたりして学費の調達が難しく進学が困難になり、本人の希望以前の要因でそれが果たせなくなるということがある。災害から時間が経ってから生じる問題に取り組んでいる人たちもいるのだがなかなかこうした方面には注目が集まりにくい。それから、根幹ともいえる「災害に強い街づくり」というのも長い地道な活動が必要である。
被災直後の支援は勿論必要だが、こうした長期間にわたる問題にも注目が集まり支援なり人々の想いが注がれることを願いたい。
今年は台湾だけでなくベトナムやフィリピンでも台風による被災が深刻であり、また台風のみならず地震でサモア・米領サモアやトンガでも多くの人が被災した。台風や地震は避けることができないし自分が遭遇するかもしれないのだが、これらによる災害を防ぐこと、また不幸にして罹災した場合にその後の被害を最小限にしたり将来の生活への影響をなるべく少なくするようなことに出来るだけ注目したいものである。
2009年10月5日星期一
開国博の横浜で海洋調査船を見る
約1ヶ月前のことになるが、横浜の赤レンガ倉庫の近くにある新港埠頭でJAMSTEC(海洋研究開発機構)の海洋調査船の一般公開を見に行った。
前日に山下公園付近のホテルで一泊して翌朝一般公開に向かったのだが、この日はあいにく雨模様。氷川丸を繋ぐロープの後ろに、航海訓練所の訓練船である大成丸の姿を見ることができる。1年半前にやはり赤レンガ倉庫で開かれたアフリカン・フェスタの際にやはり大成丸は横浜に来ており、1年半ぶりの再会である。
山下公園から赤レンガ倉庫に向かって歩く途中で見えた船溜。官庁の船と民間の船で棲み分けができているのだろうか、まず通った左写真の船溜では警察・税関や検疫所の船を見たのだがその先にある船溜には遊覧船や個人所有と思われる船が泊まっていた。
横浜税関の入り口。門司港でも見た、同学に言わせるととあるテレビ番組に出てくるキャラクターそっくりな税関のマスコット「カスタム君」が入り口に立っている。
赤レンガ倉庫の先に泊まっていた海洋調査船。手前が「かいれい」、奥が「かいよう」。
「かいれい」のブリッジ(操船室)と研究機器が置かれた部屋。旅客船や貨物船には当然ある船を操船する設備に加え、研究船なのでよりデリケートであろう研究用の設備を備えていて、故障しないように運用するのは大変そうである。
この「かいれい」、深海調査を行う無人探査機「かいこう7000Ⅱ」の母船になっていて、船尾にこの「かいこう7000Ⅱ」が積まれている。
「かいこう7000Ⅱ」。深海に潜るので圧力や塩害に耐えるべく分厚い覆いがしてあるのかと思いきや、探査機は機械むき出しのまま海底7,000メートルまで潜っていくのだとJAMSTECの方に説明戴いた。
「かいれい」の船尾。「かいこう7000Ⅱ」を母線に繋いでおくための設備が重厚に配置されている。
埠頭に泊まっていたもう1隻の海洋調査船「かいよう」。双胴型になっていて洋上での揺れを小さくして研究がしやすいようにしているのだとか。
操舵室の神棚には、「きはながく こころはまるく はらたてず くちつつしめば いのちながけれ」という言葉を漢字の形を変えて表した紙垂が貼ってあった。洋上のみならず我々の日常にも通じる紙垂である。
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横浜開国博は入場者数は見込みの1/4にとどまる不入りだったのだとか。私も海洋調査船を見ただけで、それ以外にわざわざ行ったりどこかの有料会場に入ろうとは思わなかった。有料会場でのイベントは「開港150周年の横浜」でなくてもできそうなものばかりに見えたし、横浜の歴史なり現在なり将来とは関係の薄いアトラクションにも見えた。そうしたアトラクションを見に来た人に歴史なり文化なりといった横浜が持つ文化的財産をアピールすることにも乏しかったのではなかろうか。
2009年10月4日星期日
星期一=2ª Feira?
今回のポルトガル旅行では、私はポルトガル語を全く解さないので『旅の指さし会話帳 52 ポルトガル』を鞄に入れておいた。英語で通じるところも多く切羽詰って会話帳を開くということはあまりないし、料理を頼むときは悠長に会話帳を見るわけにもいかず写真なり英訳なり雰囲気なり勢いなり(?)でオーダーしてしまうのだが、それでも駅の窓口で翌日の切符を買いたいときに「明日」という単語を調べて言ってみたり、サッカーを見に行く際に「ソシオ」と「一般」を調べてから切符売り場に行ったり(実際の表示は「一般」を意味するであろう別の単語だったのでそれをローマ字読みして切符を買ったが)と持っていると安心するし、ガイドブック同様にめくってポルトガルの旅への気持ちをかきたてるものである。
その『旅の指さし会話帳 52 ポルトガル』をめくっていて知ったのだが、ポルトガル語では月曜日のことを「segunda-feira」と言うのだとか。
「segunda」、セグンダは英語のsecondセカンド、「2番目」という意味かと。中国語では月曜日は「星期一」と「1」が入った表現であらわすので、ポルトガル語の「segunda-feira」は中国語とは1つずれて曜日を表しているといえる。
以下、火曜日=「星期二」=「terça-feira」から金曜日=「星期五」=「sexta-feira」と並び(ポルトガル語では土曜日「sábado」と日曜日「domingo」は数字を使わない独自の表現)、曜日を表すのに1つずつずらした表現になっている。中国語の「星期一」「星期二」…もそうであるが、同じヨーロッパでもトーマスクックや飛行機の時刻表で曜日を表すときにはやはり月曜日を「1」、火曜日を「2」…と表しているのでポルトガル語の曜日表記を知ってとても驚いた。月曜日が「2番目」、つまり日曜日が(表現にはでてこないが)「1番目」である由来は何なのか知りたいものである。
中国語話者がポルトガル語を学ぶと曜日の表現で困惑するかもしれないなぁ…と思ったら、既にマカオで両者が共存していますね。
今となってはポルトガル語話者が多いのはブラジルで、日本でポルトガル語を学ぶとその多くは「ブラジルのポルトガル語」なのだそうだ。ポルトガルのそれとは表現などが少なからず異なっており、ブラジルの人に言わせるとポルトガルのポルトガル語は「ポルトガルではこんななの?」「ものすごく変!」(同書p.88)なのだとか。どちらがどうということではなく、年月を経てそれぞれに違う特徴を持ったということだろうか。
2009年・ポルトガル旅行(17)ポルトガルで見た鉄道(路面電車以外)
先にポルトとリスボンの路面電車を紹介したが、それ以外の「ポルトガルの鉄道」にまつわる写真をいくつか。
前にも書いたが、ポルトのサン・ベント駅はアズレージョがとても美しい。戦いの風景のほかに、ホームから外へ出るところには街の女性を描いたアズレージョを観ることができる。
上記のサン・ベント駅は旧市街にある駅で行き止まりになっているが、ここから1駅先にカンパニャン駅がある。リスボン方面とポルトよりさらに北をを結ぶ列車はここを通るし、高速列車ALFAなどポルト発の長距離列車の多くはこのカンパニャン駅を起点とする。ここを通るメトロと接している、行き止まり部分は新しい駅舎になっているが、古い雰囲気のある駅舎もまだ残っていて乗る列車によってはこちらからホームに向かう。
カンパニャン駅の駅前にも、また古い建物やタイルが眩しい「ポルトガルを感じる」建物が並んでいる。
ここからリスボンへ向かう際に乗った高速列車、ALFA。ポルトとリスボンを3時間足らずで結んでいる。奥に見える黄色い電車はポルト近郊の街を訪れる際に何度もお世話になった近郊電車。
折角の機会なのでconforto(1等車)に乗った。飲み物が無料サービスで、貸し出してくれるイヤホンでラジオを聴くことができる。時折大西洋が見えたり収穫近い柑橘系の木々が流れる車窓に目をやりながら、言葉はわからないが音楽の流れるラジオを聴きながらリスボンへの時間を過ごした。
一方、こちらはポルト北部を走るディーゼル列車。新しい電車やディーゼルカーは冷房が効いて快適ではあるが窓を開けることができず、これはという風景を見てもガラス越しにしか見ることが出来ないが、このディーゼルカーは冷房がないが窓が開くので風を感じながらガラス越しではない車窓の眺めを見ることが出来る。
近郊列車だったが、私がレグアに向けて乗った際には菓子や水を売る車内販売が回ってきた。
2009年・ポルトガル旅行(16)お祭りのスナップ写真
先日のポルトガル旅行で書き忘れたこと。ヴィアナ・ド・カステロの交差点で、前の週に行われたであろうロマリア祭りのスナップ写真が貼ってあるのを見つけた。華やかな衣装を纏って街を歩いたり踊ったりする人たちやそれを見る人たちの写真が飾られている。
小学校の頃遠足に行くと数日後にスナップ写真が廊下に貼られ、「欲しい人は番号を書いて申し込んでください」と言われ少しでも自分の写真が写っていると申し込んでいた記憶がある。当時の私同様に写真を家に持ち帰ってお祭りを振り返って余韻に浸る、ということなのだろうか。
2009年10月1日星期四
『不能說的・秘密』
今回のポルトガル旅行ではロンドンまで国泰航空(キャセイパシフィック)、ロンドンでTAPポルトガル航空の飛行機に乗り換えてポルトガルへと向かった。出発まであまり時間がないときに手配したので往復とも乗り継ぎ2回になってしまった。
今回乗った国泰航空のフライトでは、エコノミークラスにもパーソナルテレビが備え付けてあって好きなときに好きな映画やテレビ番組を見ることができる。今回の帰りの機内で、周杰倫(ジェイ・チョウ)監督・脚本・主演の映画『不能說的・秘密』を見た。
この『不能說的・秘密』、日本でも『言えない秘密』というタイトルで公開されている(日本の公式サイト〔音が出るので注意〕)。周杰倫扮するシャンルン(湘倫)が転校してきた音楽学校で美しいピアノ演奏を奏でるシャオユー(小雨)という女子学生と知り合い互いに距離を近づけていくがある誤解がもとで2人が会えなかった後シャオユーは学校から姿を消してしまい、そのシャオユーは実は…というストーリーである。
(以下でさらに映画のストーリーに触れています)
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