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二月 2011

2011年2月20日星期日

「台湾映画史」@福岡市総合図書館映像ホール「シネラ」

 

福岡市総合図書館映像ホール「シネラ」で、4月に「台湾映画史」と銘打って1960年代から現在に至るまでの台湾映画を上映するとのことである。スケジュールはこちら
 仕事の都合で、4月とりわけ中旬以降に東京を離れるのは困難なので観るのは難しそうだが、公共図書館でこうした催しが行われるというのは興味深い。国策映画的な映画から「台湾ニューウェーブ」といわれる世代を経て現代まで、という感じで映画が用意されている。「アジアの玄関口」を名乗るに相応しいイベントを公共機関でも仕掛ける、というところだろうか。2月は「スリランカ映画特集」だそうである。

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2011年2月・台北・空飛ぶ自転車?

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 台北・愛国西路にて。小屋のひさしの上に自転車が乗っかっている。








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 こちらはMRT松山空港駅。ここでは「空飛ぶ自転車」のオブジェを見ることができる。
 自転車に地上を走らせず、高いところに置いたり走らせたりというのが台北のアートで流行っているのだろうか。

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2011年2月・台北・松山空港

 昨年12月の訪台時には往路が松山空港へ、帰路は桃園空港からだったのだが、今回は逆に往路が桃園空港行きで、帰路が松山空港発のフライトだった。MRTで空港まで行くことができ、そして何より台北の中心部に近いので出発に近い時間まで台北の街にいることができるので、便利である。

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 台北・松山空港の搭乗手続きフロアの様子。台湾新幹線が走り始めてから台北-高雄便の客はそちらに流れるなどしていたが、新たに近距離国際便の客を迎えて広くはないフロアに多くの人がいる。





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 松山空港と結ばれている主要都市にまつわる看板。








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 2階、出国手続き前の休憩スペース。無線LANも使用できるし、電源もある。







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 台湾新幹線が通って島内の交通はとりわけ台湾西岸では便利になったが、金門島など島嶼部へは相変わらず飛行機が重要な交通路である。空港内には迷彩服の兵士が少なからずいたが、金門島などへのフライトを待つ人が多いのだろう。





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 MRTの駅から空港へ向かう通路には、沖縄の宣伝が貼られてあった。








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 やはり市内から近いのは何かと都合がよいので、また松山空港便を利用したいものだ。

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2011年2月・続々々・改めて台北駅前界隈を歩く

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 前回の続き。西門駅近くの中華路沿いにはデパートが建っているのだが、その並びにはミリタリーグッズを売っている店がある。
 隣には国軍へ志願する人の窓口と思しき施設があった。台湾には徴兵制があるが、職業として軍隊に勤めようという人向けの施設のようであった、



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 さらに、「台湾国軍英雄館」という名前のホテルがあり、館内やレストランの宣伝が貼られていた。軍の施設だからか、施設の宣伝ばかりでなく軍の活動の宣伝も貼られていた。
 台北駅では陸軍や海軍の学校の生徒募集の看板を見たし、このあたりでは「憲兵」と書かれた車をたまに見かける。日本よりも「軍隊」というものを近くに感じることが多かろう。
 上のミリタリーショップも、趣味のものではなく職業軍人や兵役中の人のためのものである。

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 旧・台湾電力社長宿舎。門は閉じられていて、門の間や壁向こうに中の様子を窺うのみである。








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 登瀛書院旧跡と書かれた碑が交差点に建っている建物。清末にはここに四書五経や英語・フランス語を教える学校があったようである。その後日本統治期には日本陸軍軍官クラブとして使われ、戦後は宋美齢率いる中華婦女反共連合会や、中華民国婦女連合会がここを使ったようである。ここも現在は門を閉ざし、司法院の施設になるべく改装中のようである。

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 このあたりは、総統府の真後ろに当たる。









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 さらに歩みを進めると、日本統治期の台湾総督府交通局逓信部の建物がある。戦後は交通部が使用する建物となっているようだが、私が通ったときは門前に「国史館」の名前が掲げられており、交差点には「総統副総統文物館」と看板がかかっていた。月~金のみ開館のようで、中に入ることはできなかった。




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 総統府の南側、博愛路と重慶南路にはさまれたところにある建物は司法院。日本統治期も台湾総督府高等法院だったので、長きに渡りここが台湾の司法の拠点になっている。
 今でも現役で、博愛路側の掲示板には直近に出された判決や公示が貼られている。




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 その少し南にある交差点には、清台北府武廟旧跡と書かれた碑が建っている。清末にはここに関帝廟があったのを、日本統治期に取り壊して司法関係者の宿舎にしたと書かれている。






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 博愛路と愛国西路の交差点にある広い敷地が、国防部。ここも日本統治期の台湾軍司令部で本によっては歴史のある建物を紹介しているが、門には守衛が2人立っておりさらにその前にバリケードを配する厳重な警備ぶりであり、門前の写真も撮ることはできなかった。




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 この愛国西路も、かつての城壁に沿って通っている道路である。写真左がMRTの駅名にもなっている小南門、右は南門。





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 南門の南側にある煉瓦色の建物は、日本統治期に台湾総督府専売局。戦後はやはり同じ目的である公売局になり、現在は民間メーカーである台湾菸酒のオフィスになっている。
 門の上にある紋章が西洋調である。
 日本統治期から中華民国期へ移るに際し、同じ目的で建物を使い続けるケースが多いのが興味深い。

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 そのまま南へ歩くと南海路。郵政博物館が近いせいか、切手収集の店の看板が目立つ。
 このあたりに以前紹介した、映画の題名にもなっている牯嶺街がある。
 ここで帰りのフライトまで3時間を切ったので、今回台北を見直す街歩きはここで終わりとした。

 改めて歩いてみると、清末や日本統治期の建物が残り、あるものは現役で使われまたあるものは改装などを経て歴史的文化財となっている。上海においても同時代の建物、清末や中華民国期の建物が同様に扱われているのにも似ているだろう。と同時に、台北でも上海でも、現在とは異なる時代背景の中で建てられた建物であり、それらが今日に至るまで残っているということにも思いを至らせる。
 また、台北では台北や台湾の歴史を新たに認識したり歴史のある建造物を観光スポットとしようとしているのか、西門前の公園や撫台洋街楼のように台北の歴史を新たに展示したり、空港に置いてある観光案内にも今までよりも歴史的建造物にページを割いているような感がある。時を経て、歴史への認識を新たにしまた街に残る貴重な文化財への認識も新たになっているのだろう。

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2011年2月・続々・改めて台北駅前界隈を歩く

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 前回の続き。博愛路を引き続き南へ歩き、宝慶路との交差点には台湾銀行がある。日本統治期もここには「台湾銀行」と名乗る銀行があった。後者は日本統治期に紙幣も発行する国策銀行であったが、現在ある前者は民間銀行である。




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 博愛路を隔てた向かいには、台湾銀行の別館がある。日本統治期の帝国生命ビルである。






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 宝慶路を西門町方面に向かって歩く途中、路地の向こうに合作金庫の建物が見えた。先程中山堂の隣で見たのはこの建物の裏側で、こちらが正面である。




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 合作金庫の向かいの商店街に、整備されていないやや荒れ気味の建物があった。「ヤマニ」と読むのだろうか、日本のものと思える紋章が入っていたのでその当時からあるものだろう。荒れたままになっているのは残念である。


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 広い車道がある中華路に行き当たる。MRTの西門駅の出入り口もこのすぐ近くにある。

 「西門」というが今は門はなく、かつてここに城門があったことを示す碑が残るのみである。碑の向こう、中華路を渡ると若者の街、西門町がある。





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 中華路の向こうに、古びた木造・瓦葺きの家が見えたので、渡って見てみることにした。家屋は荒れるに任せている状態になってしまっているが、庭先や後ろの公園を使って芸術作品の展示をしたり、あるいはこの家屋も含めて公園全体を芸術作品にするような展示をしているようだ。


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 この公園の壁でも、台北の略史をレリーフで描いている。撫台街洋楼もそうであるが、台湾や台北の歴史にもっと親しんでもらおうということだろうか。
 また写真が多くなりそうなので、続きは別途。

 

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2011年2月・続・改めて台北駅前界隈を歩く

 前回の続き。延平南路をさらに歩くと、台北市政府警察局の建物がある。この建物に面して、ここにかつて清朝の台湾巡撫衙門があったことを示す碑が建っている。
 日曜日の官庁前の広場では、年配の方が将棋に興じていた。

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 警察局の隣には、「中山堂」と書かれた、大きな威厳のある建物が建っている。
 もともとはここに清朝の台湾布政衙門が建っていたのを、日本統治期に総督府の庁舎として利用されていたそれを壊して1936年に台北公会堂がこの地に建てられたのがこの建物である。第2次大戦終了に伴う日本軍の降伏式もここで行われ、その後は台北市の所有となり、一時期は国民大会が開かれるなど政治の舞台として使われたが今では台北中山堂として演劇発表の舞台になっているようである。訪れたときは内部は工事中だった。

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 台北中山堂の斜め向かいには、「合作金庫」と金色の文字で書かれた、やはり古い建物が建っている。日本統治期に日本人経営の中小企業向けの金融機関として設立された「台北信用組合」の建物で、金融機関はその後接収された上にいくつかの経緯を経て合作金庫となった。現在は合作金庫が普通銀行になり合作金庫銀行となっており、その支店として使われている。



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 中山堂の正面にある永綏街という短い通りを抜け、博愛路に突き当たったところ。煉瓦ぶきの建物に派手なペインティングである。洋服店のようである。







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 このあたりの博愛路。









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 程近いところにある、沅陵街。靴屋や洋服店が並ぶ通りだが、手前には日本の食材を売っている店がある。






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 沅陵街のすぐ南にある通りが、衡陽路。日本統治期には「栄町」と呼ばれていたとかで、博愛路との交差点付近には古い建物が残る。





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 街を歩いていると付近の名所旧跡を記した地図をあちこちで見かけ、また旧跡への道筋を記した案内板も見ることが多かった。台北の街を自ら見直しその歴史を改めて認識しよう、という流れがあるのだろうか。
 続きは後程。

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2011年2月17日星期四

2011年2月・改めて台北駅前界隈を歩く

 今回の台湾訪問は2泊3日、初日は22時過ぎに桃園空港に着く便だったので台湾では何もできず、2日目は平渓天燈節を訪れた。台湾を発つ3日目は16時45分に松山空港を出発するフライトだったので時間に余裕があったのだが、目新しいものは事前に調べてもおらずまた天気も良くなかったので、泊まっていた台北駅前界隈を改めて歩いてみることにした。台北に来るときには台北駅前に宿を取ることが多いのだが、改めて建物や通りを見ながら歩くと趣のあるものが目に入ってくる。

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 漢口路x重慶南路にある、商務印書館。中国語を学んでいると『新華字典』や『現代漢語辞典』で名前はお馴染みだが、ここ台湾の商務印書館は中華人民共和国の成立に伴い分離した会社なのだとか。






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 その奥にある、彰化銀行台北分行。日本統治期は公売局台北分局だった。








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 漢口路x博愛路には、「黃牙醫診所」の看板を掲げた時代を経ていそうな建物が建っている。








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 ここ博愛路は、カメラ店が並ぶカメラ通りになっている。写真は今回の訪台時ではなく2010年12月に撮影したものだが、同じ大きさの看板が並んで店やブランドの宣伝をしている。




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 カメラ店の向かいには、やはり日本統治期からある台北郵局(郵便局)があるが、工事中のため歴史を感じるであろう部分はビニールシートに覆われていた。







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 台北の街はかつては城壁に囲まれており、ところどころに門を配して外部への交通に供していた。カメラ店が並ぶ先には、「北門」がある。







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 ここがカメラ店街であることを示す「北門相機商区」の表示。








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 上写真のY字路を、カメラ店通りと別れて延平南路へと入ると、台北撫台街洋樓(台北撫台街洋楼)という建物がある。館内の紹介によると、日本統治期の1910年に高石組なる会社の社屋として建てられ、その後佐土原商事なる、「富久娘」を扱う酒の輸入商社の名前で登記された時期もあるとのことである。第2次大戦後は「人民導報」という新聞の事務所がここにあったが2・28事件後この新聞は停刊となり、この建物は国防部の宿舎や民家として使われたそうである。その後1997年に台北市の市跡になり、改修を経て2009年に「台北古城の歴史を認識してもらうことを任務とする」展示館として今の姿になった。
 館内では台北の歴史にまつわる展示をしていた。本の形をした展示物の上で本をめくるように手をかざすと台北の略史が読める展示があったのが印象に残っている。

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 台北撫台街洋樓の向かい側。欧風のバルコニーを持つ、おそらく歴史を汲むであろう建物の下にバイクが並んでいる。







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 延平南路x博愛路にて。









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 確か武昌路x博愛路だったか、古い建物でも1階がセブンイレブンになっていて、現役で最新の消費文化の一翼を担っている。
 写真が多くなったので、続きは後程。

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2011年2月16日星期三

台湾・侯硐駅前の工場跡と「ねこ車掌長」?

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 前回の続き。
 平渓への玄関口である、侯硐駅。このあたりでは山間を縫うように、基隆河に沿って線路が走り、狭い平地や山の斜面に街や集落が築かれている。






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 侯硐駅を通過する特急列車・自強号。
 この後に来た平渓線のディーゼルカーに乗ったのだが、やはり天燈節の時期は日本のラッシュ並みの混雑である。一人くらいなら自らを押し込むこともできようが、確実に乗りたいのであれば1駅前の瑞芳駅から乗るか、あるいは最近の平渓線のディーゼルカーは台北郊外の八猪駅から発車するものが多いのでそこから乗るなどしたほうが良さそうである。


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 侯硐駅を出ると、駅前の広場に錆付いて崩れた建物の跡を見ることができる。瑞三整煤廠(瑞三精炭工場)の跡地であり、掘り出した石炭をこの工場に送り、選炭機で選別した後に最後に女工の手により選別された石炭がここから出荷されたのだとか。





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 工場跡から伸びる、基隆河にかかる橋は整備されていて今でも渡ることができる。橋の上には、かつてトロッコがこの橋を往来したであろうことを偲ばせるべく線路や貨車が復元されている。


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 橋から後ろを振り返ると、こちらはかつての線路の跡が野ざらしのまま残っている。








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 橋の向こうには、かつて石炭を掘り出したトンネルの跡がある。








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 ここ侯硐はかつては「猴硐」と呼ばれ、その発音が今の地名や駅名の由来になっている。昔この地にあった石炭工場が稼動していたときの様子が駅前の博物館に模型で示されている。橋と建物、そして線路との関係がよくわかる。
 そして、この地で働いていた人達の表情や往時の風景を、絵や写真で見ることもできる。

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 この侯硐駅前、どういうわけか猫が多い。








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 観光客の扱いも手馴れたもの、なのだろうか。









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 そんな駅前にたくさん住む猫の影響からか、侯硐駅には「永遠的列車長~黒鼻」の像が建っている。
 日本にも「たま駅長」がいる駅があると聞くが、ここ侯硐では本物の駅長に遠慮してなのか、猫は「列車長」、即ち「車掌長」の肩書を貰っている。





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 駅の売店では、この駅の近くに住む猫のものだろうかあるいは台湾・世界各地のだろうか猫の写真の葉書が売られている。猫好きの人にとっては、この駅で過ごす時間は至福の時なのだろう。

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2011年2月15日星期二

2011年・今年も平渓天燈節へ

 昨年に続き、今年も台湾・平渓天燈節(ランタンフェスティバル)に行ってきた。

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 昨年同様、平渓線に乗ってまずは十分駅へ。この日はあいにくの雨模様である。







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 観光客が増えたからなのか、以前はいかにも1本の列車が行き来しているという感じで途中下車すると2時間近く待つこともあったのだが、この十分駅ですれ違うダイヤにしたのか、今では1時間程度待てば次の列車が来るようになっている。




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 去年は元宵節当日にここ十分の特設広場でイベントが開かれた日にここを訪れたこともあり、十分老街は身動きも難しいほどの混雑ぶりだった。今年訪れたのは元宵節前の週末であり、この日のイベント会場はここ十分ではなく平渓の平渓国中である。そのせいか、あるいは雨のせいか、はたまた元宵節当日ではないせいか、人は多かったが昨年のように線路上まで人があふれているということはなかった。十分では元宵節当日、2月17日にイベントが行われるのでその日にまた賑わうのだろう。

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 ここ十分で昼間にランタンを上げる人も、去年訪れた時ほど多くはなかった。それでも十分老街のあちこちで、とりわけ線路上や線路沿いから、願いを込めたランタンが次々と上がっていた。






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 十分老街には、ラムネを売っている店があった。瓶のデザインがユニークである。








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 続けて菁桐へ。駅の飾りつけは去年とは違っており、また駅舎の隣の建物のペイントはなくなっていた。






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 平渓線のディーゼルカーの塗装は路線にある炭鉱跡を観光地として宣伝しているものと、






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 まさに天燈節を描いたものとがある。









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 菁桐から1駅隣の平渓駅近くの平渓国中が、この日のイベント会場である。テントの飲食店が並ぶ通りを抜け、会場の中学校に向かう。




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 今年で2回目だが、やはりランタンが舞う様は美しい。








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 今年はイベント会場の近くから、一斉にランタンを上げる様を見ることができた、馬英九総統も来ていたようだし、何回も続くランタン上げの間には歌手による歌の披露や曲芸のイベントを舞台でやっていた。その間にランタン上げの準備をして灯をともし、一斉にランタンを飛ばしていく。

 

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 何回見ても、夜空にランタンが舞い上がる様は美しい。




 今年は動画も撮影したのでぼちぼちとそちらもアップ。中国からは見られないかな…



 

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2011年2月10日星期四

秋葉鶏排@秋葉原で魯肉飯と米粉

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 秋葉原駅をヨドバシカメラのある昭和通り口で降り、総武線をくぐったところにある公園に面して「秋葉鶏排」という飲食店がある。
 店内はカウンターに椅子が6つあるだけの小さな店である。





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 鶏排、鶏肉の揚げたものが店名の由来なのだが、ここで魯肉飯を食べてみた。肉の脂身が溶けているという感じではなくまたニンニクの香りも強くなく、割とあっさりとした感じである。





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 別の日に食した、米粉と魯肉飯のセット。
 珍珠奶茶などタピオカが入ったドリンクも飲むことができ、都内でちょっとした台湾気分に浸ることができる。

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2011年2月9日星期三

ロサンゼルス・チャイナタウン

 順番が前後してしまったが、リトル・トーキョーからMetroで2駅、Olvera Streetのあるロサンゼルス・ユニオン駅からだと1駅で、チャイナタウン駅に着く。このあたりが古くからのチャイナタウンになっているようだ。

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 メトロのチャイナタウン駅。駅の屋根が、いかにもという造りになっている。








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 駅を降りてすぐのところでは、中国系よりはベトナムや韓国など、他のアジア各地に縁のある店を多く見ることができる。ビルの中に入っても、ベトナム系と思しき店がシャッターを開けていた。



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 しかし、駅から離れてN Broaewayに入ると、一気に漢字の看板が目に入ってくる。雑貨屋や食堂、宝飾店など様々である。





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 漢字で「国泰銀行」の看板が見える、Cathay Bank。中国系の人達をターゲットにした銀行である。








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 こちらはBank o Americaの広告。これだけ見ると中国か台湾のどこかにある広告だと思ってしまう。








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 土産物や慶事の飾りなどを売っている店。右側に「寿司」の文字が見えるのはご愛嬌か。








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 ニューススタンドでも、カレンダーを売っている。
 春節までまだかなり日数があるのだが、カレンダーは1月始まりだからなのか、あるいはアメリカゆえにクリスマスを祝うからなのか、早々と慶事にまつわるものを見ることができる。





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 チャイナタウンでは、この中にある歴史的な建物や、かつての様子を紹介した文章を見ることができる。写真は前述のCathay Bankの由来を紹介したもの。







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 通りの名前も、アルファベットと漢字の併記である。









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 旅行会社の宣伝。「大峡谷」はグランドキャニオン、「舊金山」はサンフランシスコである。アメリカ国内旅行の宣伝なのだが、漢字だけで書かれると雰囲気が違ってくる。







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 「中華会館」と看板に書かれている建物の前では、青天白日旗がたなびいている。








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 また、寺院の門前の広場には、孫文像が鎮座している。

 ここチャイナタウンは、リトルトーキョー同様に古くからのエスニックタウンなのだが、こちらでも新しく来た中国系の人達は郊外に住んだり職場を設けたりして新たなエスニックタウンを築いているのだとかで、確かにこのチャイナタウンはやや寂れた印象もあり、また前述の通りベトナム系など他のエスニシティの姿が目立つようでもあった。それでも、ロサンゼルスにおける中国からの移民を語るときに、ここチャイナタウンは外せない存在なのだと思う。

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2011年2月7日星期一

ロサンゼルス・タイタウンとリトル・アルメニア

 ロサンゼルスでハリウッドと言えば映画をすぐに思い浮かべるが、Hollywood Western駅界隈にはタイタウンとリトル・アルメニアと呼ばれているエリアがある。

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 タイタウン。タイ料理店や対物産店が軒を連ねている。タイ物産を並べているスーパーマーケットに入ってみたが、乾物のみならず食事や生活に必要なものが大規模に並んでいる。さらにタイから取り寄せた食材や飲料などもあり、タイにいるかのように暮らすおkとができそうな雰囲気である。

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 通りを1つ隔てると、リトル・アルメニアになる。車道に面している店を見ると「ARMENIA」の文字を冠した看板やパン屋を見ることができるが、近くにあるタイタウンの影響でアルメニアらしさは薄くなっているように見える。

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 が、路地を入るとアルメニア系の人達が集っているであろう教会を見ることができる。円い屋根と金色の背景に聖人を描いた壁面が、その雰囲気である。






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 路地にある家に掲げられている紋章や、庭に並ぶ人形に、
 放送大学のテキストでもある『国際政治―新しい世界像を求めて』(高橋和夫編著、放送大学教育振興会、2000年)で、テニスのアンドレ・アガシがアルメニア系であると紹介されていた。同じ書籍の中ではトルコに住むアルメニア人がオスマン帝国時代に迫害されたことに触れる一方で、その改訂版ともいえる『現代の国際政治-9月11日後の世界-』(高橋和夫編著、放送大学教育振興会、2008年)ではアメリカのエスニシティロビーの例として、アルメニア系アメリカ人のロビー活動に触れていた。現代国家としてのアルメニア、そしてアルメニアにルーツを持つ人の影響力は、日本に住んでいる我々が思うよりも大きいのだろう。

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2011年2月3日星期四

ロサンゼルス・Olvera Street

 リトルトーキョーからメトロで隣の駅、アムトラックの駅でもあるロサンゼルス・ユニオン駅の前は、メキシコに縁のある人達が集う場所になっていた。

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 駅前の通り。通りの表示が「Paseo Luis Olivares」とスペイン語表記になっている。
 奥に見える教会の名前はLa Iglesia De Nuestra Senora La Reina De Los Angeles。この地に住むメキシコ系の人達が祈りを捧げるのだろう。





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 教会に面した広場では、メキシコ料理を振舞っているなどして、多くのメキシコ系の人達で賑わっていた。






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 広場では、青少年や子ども達が踊りを披露していた。









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 教会に程近いカフェは「Cafe de Camacho」、スペイン語で名前が冠せられている。








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 教会とユニオン駅の間にある、上の写真とは道を隔てた広場から、Olvera Streetという短い通りが延びていて、屋台や小商店が所狭しと軒を連ねている。







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 民芸品やメキシコ系の人達が着るであろう衣類、さらには食べ物も売っている。
 ここに集うメキシコ系の人達の日用品を売るストリートの一面と、土産物屋としての一面の両方を備えている感がある。


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 メキシコのプロレス、ルチャで使われているであろう覆面も売られていた。








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 このOlvera Streetには、「Avira House」という建物がある。ロサンゼルスに現存する最古の建物だとかで、1818年に建てられたものを修復して、往時の様子を再現しえいる。







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 ロサンゼルスのメトロは、車内での注意書きや駅での案内がスペイン語でも記されている。それだけメキシコ系の人達が多数を占めるであろうスペイン語話者の比率が増し、スペイン語が無視できなくなっているのだろう。ロサンゼルスの人口の4割がスペイン語話者なのだとか。
 そんなメキシコに縁のある人達が、ここOlvera Street付近に集って休日を楽しんでいるようであった。同じ言語や文化を共有する人で集って、それらを確かめているようにも見えた。

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 ロサンゼルス・ユニオン駅の中の様子。アメリカの駅は実用本位かと思ったが、結構豪華な装いである。

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2011年2月1日星期二

ロサンゼルス・リトルトーキョー

 前回ロサンゼルスのリトルトーキョーにあった写真館のことを書いたが、その他のリトルトーキョーの様子もぼちぼちとアップ。

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 メトロをLittle Tokyo/Arts District駅で降りると、カラフルな絵の周りに「ロサンゼルスの小東京は 我々の心の故郷です」と書かれた看板が出迎えてくれる。






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 その看板やメトロの駅から程近いところにある、全米日系人博物館。日本からアメリカに移り住んだ人々が作った社会の歩み、そして第2次大戦期の強制収容所の様子やその中でアメリカに忠誠を誓った人達が戦地に赴いた様を、当時の写真や展示で伝えている。館内では、日系人のボランティアの方が展示を紹介している。




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 その向かいにある、かつての全米日系人博物館の建物。西本願寺の寺院の隣にあり、第2次大戦中はここに日本人や日系人が集められ、強制収容所に送られたのだとか。







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 この2つの建物の間を抜けると、「Go for broke」と書かれた、やはり第2次大戦中の日系人部隊にまつわる記念碑がある。







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 さらに、1898年の米西戦争に始まり第2次世界大戦やベトナム戦争、さらにはイラク戦闘も含めてアメリカの派兵中に亡くなった日系人の名前を刻んだ碑も、リトルトーキョーにはある。






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 日本人や日系人を相手とした店がかつて並んだであろう通り。今でも、飲食店や小さな商店が軒を連ねている。








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 日本式に再現された建物が並ぶ、ジャパニーズ・ビレッジ・プラザ。午前中は閑散としていたが、昼食時になると日本人や日系人と思しき人達、さらには韓国系と思しき人達も交えて賑わっていた。
 土産物店や飲食店のみならず、パン屋や日本の食材を売るスーパーマーケットやもあり、観光と生活の両面でここに人がやってくる。

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 二宮尊徳像。









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 メトロの表示や案内は他所では英語とスペイン語なのだが、リトルトーキョーの最寄駅であるLittle Tokyo/Arts District駅では日本語とハングルで書かれた案内を見ることができる。



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 メトロ沿いには、時代を経ているであろう店名表示や不動産屋の表示を見ることができる。
 このリトルトーキョー、古くからの日本人・日系人街なのだが、治安が良くない時期があったとかで割と静かな印象である。日系企業が多いTorranceが、今日では日本人や日系人が多く暮らす街になっているとのことである。時代に応じて日本人や日系人の社会も変わっていくということであろう。

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