中国

2009年10月31日星期六

「英愛咖啡」

Imgp7929 煙台・大馬路を歩いて海岸に突き当たるところに、「英愛咖啡」の看板を掲げた2階建ての建物を見つけた。
 広仁路歩行街の南の端にあり、海をバックに建つこの「英愛咖啡」、韓国との交流が深い煙台にあって李英愛=イ・ヨンエにあやかってつけた名前だろう。アルファベット表記の「YOAI COFFEE」、「英愛」のピンイン表示とは異なるが、イ・ヨンエの名前とも異なる表記にしたのは遠慮したのか「そこまで一緒にするのはどうか」という後ろめたさがあったのか…
 最近イ・ヨンエは映画やドラマには出ていないようだし、チェリナーの消息もあまり聞かない。これからの注目は台湾に目を移して桂綸鎂ですかねぇ…

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崂山可乐(労山コーラ)

P1010382 今回の旅行中、青島で見つけた崂山可乐(労山コーラ)。









P1010387  裏返してラベルを見ると、原料欄に「乌枣(ナツメ)」「砂仁(シュクシャミツ)」「白芷(ビャクシ)」「良姜(コウリョウキョウ)」「丁香(チョウジ)」と、漢方薬の材料になりそうな薬草・植物の名前が並ぶ。実際飲んでみると、漢方薬のような香りがかすかに鼻に抜ける感じがする。
 変わり種の味がするコーラといえば日本でもあずき味のペプシコーラが最近売り出されたが、薄い漢方薬のような味のコーラが味わえるのはこの崂山可乐だけではなかろうか。健康に良さそうな雰囲気が売りなのだろう。

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2009年10月30日星期五

2009年・環黄海旅行記(23)釜山~博多・フェリー「ニューかめりあ」

 下関を起点に中国・韓国を駆け足で回った今回の旅行も終わりが近づいてきた。釜山港から船に乗って日本に戻らねばならない。
Imgp8489  まずソウルから釜山へ高速電車KTXで移動。やはり折角の乗車機会なので1等車に乗車。3列シートのゆったりとした座席である。運賃は週末料金の71,700ウォン、これに自動券売機購入による700ウォンの割引がある。券売機での購入は英語の画面が選べるので割と簡単である。
 釜山までの2時間45分は殆ど寝ていたのだが、9月末ということで沿線に実る稲穂が黄金色で美しかった。
 釜山駅に着き、フェリーが出る国際旅客ターミナルへの行き方を尋ねたところ時間は決まっていないが連絡バスが出ているとのことであった。教えてもらった出口へ行くと、タクシー乗り場の隣にそれとわかるバスが停まっていた。他のバスの停留所と離れておりそもそも停留所の案内もなかったような記憶があり、バスが停まっていないとわかりにくいだろう。
P1010582  釜山からは下関行きと博多行きのフェリーが出ている。略同時刻に出るのだが、今回は博多行きのフェリーに乗ることにした。2等運賃の90,000ウォンはクレジットカードで支払ができたが、港湾使用料3,200ウォンは現金で支払う必要がある。





Imgp8506  ターミナルの屋上から見た、今回乗るカメリアライン運航の「ニューかめりあ」号(韓国側代理店のウェブサイトはこちら)。昼間に博多から釜山へと運航し、夜に釜山を出て翌朝博多に着くというスケジュールであり、この航路に入っている1隻が1日で1往復するという運航形態である。釜山と下関を結んでいる関釜フェリーが2隻の船で釜山→下関・下関→釜山を夜行便で結ぶ(それぞれの船は1日で1片道航海、2日で1往復することになる)のと比べると船にとっては密度の高いスケジュールになっている。
 夕方釜山に着いた「ニューかめりあ」。国際仕様のサイズのコンテナだけでなく、船尾から小さいJRの貨物コンテナが下ろされているのが見える。

Imgp8505  こちらは下関へ向かう関釜フェリーの韓国側投入船「SEONG HEE」号。







P1010600  時刻表では20時出港となっているが、この日は19時から出国審査がありその後すぐにフェリーに乗り込んだ。
 「ニューかめりあ」の船体全体を写真に収める機会はないが、船内にある案内のテレビ画面による本船の紹介から。




Imgp8523 Imgp8525  船内のロビー。








Imgp8564  客室へ向かう通路。今回乗った3隻の船の中で、この「ニューかめりあ」がいちばん船内がきれいに整備されていたと思う。前述の通り1日で博多と釜山を往復する、他の日中・日韓フェリーに比べると厳しいスケジュールの中でよくやっていると感心する。




P1010607  船内には浴場もあり、こちらも清潔に整備されている。朝は5時半から利用可能で、博多ポートタワーを目の前に見ながら入浴することができる。







P1010596  船内にはカラオケボックスも確か3室用意されている。夜だと船内で寝るだけなのだが昼間の航海だと時間をもてあます人もいるだろうからその間にカラオケを、という客も少なからずいるだろう。
 他にはゲームセンターもあった。





P1010592  食堂は食券式。食堂に限らず船内では日本円のみが使用可である。
 自動販売機に「ジョジャックッ定食」という名前を見付けたので、何かわからないままに注文したところ、出てきたのは蜆の澄まし汁定食であった。
 小皿の数やその中身も含めた定食の「韓国らしさ」という点では、煙台から乗った「香雪蘭」のほうに軍配があがると感じた。


P1010591  今回利用した2等船室。所謂雑魚寝スタイルだが寝るときの頭の部分に仕切りがあり、周囲を気にせず眠ることができるようになっている。
 19時過ぎに乗船して20時出港ということであったが、釜山~博多間は実質6時間くらいの距離ということで実際に船が動き出したのは22時過ぎである。翌朝5時半に目が覚めたときには既に船は博多港に着岸しており、人によっては「釜山出港前に寝て博多到着後に起きて、航海中はずっと寝ている」ということもあるかもしれない。


Imgp8560 Imgp8559  早朝の博多港。おそらく近所の方であろうか、朝早くから岸壁で体操をしたり釣りをしたりしていた。また、博多ポートタワーの前を、朝早くから小さな旅客船が横切っていった。
 朝7時半から下船開始だったが、混雑することもなくスムーズに降りることができた。

 今回の旅では日本・中国・韓国をそれぞれ船内1泊で移動し、福岡や下関エリアと中国・韓国との「距離の近さ」を改めて感じた。それぞれ(混雑期でなければ)切符も窓口で簡単に購入することができるのも旅への敷居を低くさせてくれ、中国・韓国へ行くには飛行機に乗る必要がある東京では感じることが出来ない距離感である。
 青島・煙台・仁川それぞれに訪れる前には思いもよらなかった街並みを歩くことができ、当初はフェリーや貨物船で日・中・韓を移動するのが主目的だったが訪れた街での新鮮な体験と新しい発見もまた、そしてそのほうが印象に残る旅であった。

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2009年10月29日星期四

2009年・環黄海旅行記(22)韓国放送通信大学校

Imgp8405 韓国滞在3日目。この日の午後にはソウルから釜山に移動し、釜山から船に乗って日本に戻らなければならない。
 韓国観光公社で貰ったソウルの市内地図の上の隅に「韓国放送通信大学」の名を見つけたので、午前中にそこ=韓国放送通信大学校、日本の放送大学と似たシステムでテレビやラジオを通じて大学教育を行っている大学に行ってみることにした。


Imgp8404  地下鉄4号線の恵化駅で下車し、駅前の広い道(大学路-通りの名前は近くにあるソウル大学に由来。放送通信大学校もソウル大学の付属機関だったことがある)を東大門広場の方向に戻るように歩くと、5分ほどで上写真の案内板が見えてくる。
 左写真は構内の案内。




Imgp8387  中にはいくつか建物があり、それぞれに守衛の方がいたので中に入っていいか聞いてみたが、明らかに部外者とわかるからか断られた。かつて放送大学で学んだ韓国語を使って韓国放送通信大学校への訪問を試みたが、たかだか45分x15週の学習では歯が立たず一蹴された、というところだろうか。一昨年、台湾の国立空中大学の学習センターを訪れた時のようにはいかなかった。もう少し言葉ができれば中を見ることができたのか、あるいは守衛の方ではなくて学校関係者の方とどこかで接することができれば入ることが出来たのか。もっとも、よしんば入ることが出来たとしても言葉を解さないので意味もわからずただ見てまわるだけになりそうではある。
 建物の上には「한국방송통신대학교」の文字が見える。「방송」-「バンソン」-「放送」、「통신」-「トンシン」-「通信」、と、中国語の音に近い言葉だと漢字表記が類推できる。
Imgp8403  大学で行われるイベントの告知だろうか、大学のURLが書かれたものなど横断幕がいくつも掲げられていた。








Imgp8407  こちらは「学生会館」か。









Imgp8389  図書館。









Imgp8394  敷地内で唯一古そうな、欧風建築の建物を見かけた。白く塗られているこの建物は今では講堂のようであるが、前に植えられている記念植樹には「一九〇七年(高宗四四年)三月工業傳習所本舘(史跡第二七九号)竣工紀念」と書かれていた。





Imgp8410 Imgp8384  日本の放送大学の本部の周りはやや閑散としているが、この韓国放送通信大学校は大通りに面していることもあり学校の前や脇の通りには店が並んでおり、学校へ来た際に食事に困ることはなさそうだ。


Imgp8418 Imgp8420  大学校を後にして、東大門広場を目指す。途中に教会に見える立派な建物があったが、どうも結婚式場のようである。教会風の建物にしては通りの向こうからも教会のものとは違う、韓国の文化を描いた絵が壁に描かれているのが見えたので違和感があったが、結婚式場なら合点がいく。

Imgp8437  東大門市場。衣類や布に関連した店が並ぶマーケットである。夜遅くまで賑わうようであるが、午前中ということで人通りは多くなく閑散としていた。







Imgp8443  市場内を流れる清渓川。ソウルの中心部を流れており、市内の散歩道になっている。








Imgp8467  東大門。








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 日本の放送大学のテキストは大きな書店で見ることができるが、韓国の韓国放送通信大学校のテキストを邦訳した『現代韓国社会を知るためのハンドブック』という本がある。韓国の現代社会における諸問題に焦点を当てて解説した本のようである。放送大学のテキストのような雰囲気なのだろうか。

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 来月(11月)14日~15日、放送大学によるシンポジウム「世界公開大学シンポジウムinさいたま」というイベントがあり、放送大学と同様のシステムで遠隔教育を行っている世界各地の大学による講演があるようだ。遠隔教育に関する専門的なイベントであり学術的に教育に携わっている人あるいは遠隔教育に携わっている人が主対象のようであるが、世界各地で遠隔教育を行っている大学、そしてその方法で社会人に大学教育を行っている大学の存在に興味があり、またそれぞれの大学がどのような取り組みをしているのかに関心があるので後日その内容を知ることができればよいのだが、と思う。

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2009年10月28日星期三

2009年・環黄海旅行記(21)DMZ・都羅山駅へ鉄道の旅

 韓国滞在二日目。特に予めツアーに申し込んでいた訳ではなく何をしようかと考えたが、韓国と北朝鮮の軍事境界線地域、所謂DMZまで列車で行けるようになったとのことなので、ソウル駅から列車に乗ってDMZを目指すことにした。
P1010530  境界線の駅である都羅山駅へ行くには、ソウル駅から京義線の電車に乗って汶山(1文字目はさんずいに文)駅へ行き、そこでディーゼル列車に乗り換えて行くことになる。もともと京義線はその名が表すようにソウルから北側の新義州を結ぶ路線だったのだが、南北分断で京義線も分断されてしまい、韓国側の京義線は長らくソウルと汶山を結ぶ近郊路線であった。近年南北の合意で再び京義線が南北間で結ばれ、直通列車を走らせることも可能になり2007年からは境界線を越えて貨物列車が走っていたがそれも1年で中断となった。
 ソウルから乗る京義線は最近電車化され、それに伴いソウル駅の他のホームへの入り口とは離れたところから乗車する。朝8時50分発の電車に乗り、汶山駅まで約1時間の乗車である。
Imgp8321  汶山駅でディーゼルカーに乗り換える。ソウルでは汶山駅までの切符しか買うことができないので、ここで改めて都羅山までの切符を購入する。乗り換え時間が5分しかないので慌しく切符を買って乗車。





Imgp8265  切符は都羅山駅までなのだが、続けて乗ることができるのは2駅隣の臨津江駅までである。10時に汶山駅を出発したディーゼルカーは10時10分に臨津江駅に到着。
 ここで下車し、隣の都羅山駅からDMZツアーに参加する人はそのチケットを買うことになる。あまりいないのだろうが都羅山駅までの単純往復の人は別途手続きをする。
 いずれを選んでも、都羅山駅へは1時間後に再びやってくるディーゼルカーに乗って行くことになる。
 ホームは柵で区切られており、汶山から来た人は柵の向こうで下車し、1時間後に柵の手前から再び乗車する。
P1010513  DMZツアーのチケット売り場。ツアーに参加したい人はここでチケットを買う。17,000ウォンであった。








Imgp8284  駅前の通りの先には臨津閣公園がある。ソウルからDMZツアーに参加すると途中でこの公園に立ち寄る。歩いて行けそうだったが、下手に駅を離れるのも拙そうなので今回は行かなかった。





Imgp8286  駅前に広がる水田。稲を用いて文字が描かれている。横書きで上段は臨津江が属する地名である「パジュ(坡州)」だとはわかったが…






Imgp8313Imgp8267  臨津江駅の駅舎。ここから都羅山駅に向かう際に、帰りの切符を持っていることが求められるようでそのことを駅にいる兵士に聞かれた。帰りの切符は都羅山からの切符をここで買うことができる。
 ホームには、「ソウルまで52キロ、ピョンヤンまで209キロ」と書かれた案内板が建っている。
Imgp8316  1時間後に再びディーゼルカーがやってきた。乗客を入れ替え、柵の手前まで移動したディーゼルカーに乗って都羅山駅を目指す。






Imgp8328 臨津江=イムジン川を渡り、5分程で都羅山駅へ。
 ホームの先には境界線を越えて北を目指す線路が見えるが、南北直通が中断され今のところ列車がこの先を走ることはない。





Imgp8337  ここでバスに乗ってDMZツアーへ。このルートでDMZを目指すツアーは韓国人も参加することができる。ソウル発のツアーは外国人向けで韓国人は参加できないので、韓国人はこの「都羅山まで鉄道で行く」ことで統制区域内に足を踏み入れ、「都羅山駅からDMZツアーに参加する」ということで境界線付近を見ることになる。
 今回のツアー参加者は少なく、韓国人とドイツ人?のアベックと韓国人女性3人連れ、それに私と近しい年頃と見える韓国人男性とその母親と思しき女性、それと私という顔ぶれであった。


Imgp8333  まずは第3南侵トンネルへ。北側が韓国への侵入ルート確保のために掘ったとかで、1978年に発見されている。
 日本語の音声も聞くことが出来る映像紹介を見た後でトロッコに乗ってトンネルを下り、さらにトンネル内を歩いて発見時のエピソードや当時の偽装の様子の説明を見ることができる。映像ではトンネル発見時の様子や時代背景を述べる一方で、他方トンネルの存在を「南北分断の悲哀」と紹介していたのが印象的であった。16年前に板門店ツアーに参加したときには北批判の強いガイドだったのだが、時代の流れだろうか。

Imgp8334  そんな時代の流れか?敷地内にあった兵士の人形は「ゆるキャラ」系であった。







Imgp8339  続いて都羅展望台へ。ここから望遠鏡で北側の様子を見ることが出来る。北側へカメラを向けることはできず、また北側が見える場所から離れたところでないとカメラを構えてはいけない。
 素気ない施設だが、北に思いを持つ韓国の人は特別な思いでこの地に立ち双眼鏡を覗くのだろう。
 このあと「統一村」なる、統制区域内にある集落にある食堂で食事をして(ツアー料金には含まれない)、都羅山駅に戻ってツアーは終わり。
 韓国語を解さずいちいち旅程や集合時間の確認をする日本人(私)が目に留まったのか、ツアー参加者の韓国人男性とその母親と思しき女性に身振り手振りでいろいろと親切にしていただいた。「写真を撮ってあげようか?」と身振りで示してもらったり、食堂では向かいに座ってキムチなどの小皿をシェアしたりした。カタコトの韓国語でどこに住んでいるか聞いたところ「汶山」との答えが返ってきた。境界線近くに住んで長いこと何かの思いを持っていた母親をDMZツアーに連れてきた息子、ということなのだろうか、詳細はわからないが…
Imgp8362  ツアーから戻り、帰りの列車までは1時間弱あるので駅の周りを散策する。写真は都羅山駅の駅舎。統制区域内なので、生活感は全くない。







Imgp8347  南北ともに統一を目指しつつ異なる政府が存在するという現実を踏まえ、「異なる関税区域」という建前で税関の検査場がある。これも南北の列車運行が中断されている現在は使われることがない。





Imgp8355 Imgp8356  南北を繋ぐ線路も、いまのところ柵で閉じられている。







Imgp8349  踏切を渡った向こうには公園があった。駅や踏切の係員がこの公園を勧めるが、今のところ見るべきものはない。それでもDMZにある公園は韓国人にとって意義があり、それゆえに係員も勧めるのだろうか。





Imgp8366 Imgp8370  都羅山駅の駅舎の中には、朝鮮戦争時に砲弾を受けた蒸気機関車の絵が飾られている。朝鮮戦争の象徴ともいえるこの機関車は今は先述の臨津閣公園にあり、車窓からもその姿を見ることができる。
 他方、右写真は南北直通列車の運行を期待した絵である。

Imgp8377 Imgp8378  駅のホームから見た駅舎。「Transit office」の名に、境界線の最前線という位置づけを見ることができる。
 臨津江駅と同様に、ソウルまでの距離とピョンヤンまでの距離が案内板に書かれている。

Imgp8375  再び途絶えてしまった京義線の直通であるが、都羅山駅の隣は開城(ケソン)となっている。







Imgp8374 Imgp8380  都羅山駅からのDMZツアーは北を望む展望台での滞在時間も短く、他のみどころは南侵トンネルくらいなのでツアー自体には魅力が少ないといえる。ツアーの料金が安いことくらいがメリットだろうか。帰りもそのまま帰ると汶山からソウルを目指す路線で途中駅止まりになりそこでまた待たされて結局略1日がかりになるので、ソウルから板門店ツアーなりに参加したほうが見応えはあるかもしれないし効率的かもしれない。
 それでも、自分で切符を買って交通機関を乗り継いで境界線へ、DMZへ行くということにおいてこのルートは意義深いものだといえる。用意されたツアーではなく(都羅山駅から先はツアーに頼らざるを得ないのだが)、普通に交通機関を利用してDMZへ行くことで違った感慨を持つのではないだろうか。韓国人がDMZへ足を踏み入れるための経路としても、この京義線経由のルートは意味があるものと言えよう。

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 私が訪れた2009年9月現在、この都羅山からのDMZツアーは1日3回催行されるようだ。臨津江駅が11時10分・12時10分・14時10分発とかでその1時間前に臨津江駅に到着する列車に乗り、臨津江駅で乗り換えてツアーに参加ということになる。その3回のチャンスは、時刻表なりパンフレットで調べると下記のようになるだろうか。

・ソウル駅発08:50→汶山で乗り換え10:00発→臨津江着10:10で1時間後の列車を待ち11:10に同駅を出発
・ソウル駅発09:50→汶山で乗り換え11:00発→臨津江着11:10で1時間後の列車を待ち12:10に同駅を出発
・ソウル駅発11:50→汶山で乗り換え13:00発→臨津江着13:10で1時間後の列車を待ち14:10に同駅を出発

 出発時間によって見ることができる場所も違うようで、最新の情報はソウルの韓国観光公社に電話するなり訪れるなりして調べるのが良いと思う(日本語O.K.、私も電話してソウルを何時に出ればよいか教えていただいた)。韓国観光公社の案内電話番号は、今いる場所の案内が欲しければ「1330」をダイヤルすればよく、他の地域の場合は市外局番+1330、日本など海外からは国際電話識別番号+韓国国番号               82+市外局番から0を除いた数字+1330である。

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2009年10月26日星期一

2009年・環黄海旅行記(20)仁川・中華街の横に日本の街並みを見る

Imgp8193 前回の続き。三国志の壁画が並ぶ通りを登ると、右に曲がる下り階段がある。この階段は「清日租界地境界階段」、かつての清国と日本の租界の境目となる階段で、階段の右側が清の租界、左側が日本の租界で現存する建物もその違いを残している。
 背を向けている孔子像は、21世紀に入ってから青島市から寄贈されたもの。


Imgp8197  階段の左側。ここだけ見ると日本のどこかの町のようである。







Imgp8198  階段の途中で唐辛子を干しているのは、やはり韓国というべきか。







Imgp8199  階段を下りたところで振り返る。階段に並んでいる燈籠は、振り返ったので左側が清の、右側が日本の様式になっているのだとか。






Imgp8203 Imgp8205  階段を下りて左に曲がった通りが「歴史文化通り」と名づけられているとかで、やはり日本のどこかで見られそうな真家並みである。左写真手前に写る提灯が中華街の近くであることを表しているといえようか。


Imgp8207  中区役所の前の交差点にて。日本の温泉宿のようである。







Imgp8223  中区役所。かつてはここに日本領事館があったそうだが、建物は壊されて新しくなっている。







Imgp8209  歴史文化通りを中区役所の前で曲がり、さらにクランク状に左に曲がるとやはり歴史を感じさせる白い建築物が姿を現す。
 手前の平屋建ての建物は旧・第十八銀行。現在の十八銀行は長崎に基盤を置く銀行だが、かつて仁川開港前には対馬藩の関係者が住んでいた関係でその後も長崎出身の人がこの地には多くなったとかで、当時から長崎に基盤を置いていた十八銀行がこの地に店を開いたのだろうか。
 今は仁川の近代建築博物館になっていて、このあたりの変遷を紹介している。

Imgp8212  上写真奥の2階建ての建物は旧・五十八銀行。現存する流れを汲む銀行名より「その後の富士銀行」といったほうが我々にはなじみが深いだろう。現在は当地の飲食業組合の名前を地図に見ることができる。





Imgp8213 Imgp8214  旧・十八銀行と旧・五十八銀行の間には小さな公園があり、かつての街並みの写真が飾られている。





Imgp8225 Imgp8227  旧・十八銀行のある交差点を今度は十八銀行を背にするように逆に進むと、やはり古い趣がある旧・第一銀行がある。この第一銀行は日本の銀行ながら大韓帝国時代には同国の中央銀行のような役割も行っていたが、その中央銀行機能は後に韓国銀行に移された。門前にはその韓国銀行の改称後の名前である「朝鮮銀行」の文字が見える。
 第一銀行は上述の五十八銀行と同じく今ではみずほ銀行・みずほコーポレート銀行であるが、その前の「第一勧業銀行」まで「第一」の名を伝えていた。
 これらの銀行は日本統治期に仁川にやってきた訳ではなく、仁川が開港された1880年代前後に相次いで仁川に店を構えており、それぞれの建物は1890年前後に建てられたものである。日本の銀行が大韓帝国の中央銀行の役割を担ったことなど、この地にこれらの銀行が店を構えたことはそれぞれに歴史や背景があってのことでそのうち詳しく調べてみたいと思う。

Imgp8230  旧・第一銀行の前の通り。往時の景観を残しつつ、牛乳屋や民家として今でも使われている。







Imgp8244  仁川駅前界隈では、写真の露店に並べられている土産物のように韓国・中国・日本のものが混ざり合って姿を現しており、それはまた韓国が中国そして日本と関わってきた、関らざるを得なかった歴史を表しているともいえる。韓国の近現代史の一端をこの仁川の中華街付近では感じることができ、そしてそんな韓国の近現代史の上に仁川の街が成り立っているのだということも感じることができる。

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2009年10月21日星期三

2009年・環黄海旅行記(19)仁川の中華街

 今回乗った船「香雪蘭」号の船内には仁川(Incheon、인천、インチョン)の観光案内や地図が置いてあったのだが、その中に「チャイナタウン ときめきの旅」と日本語で書かれた地図が置いてあるのを見つけた。韓国語と日本語で仁川の中華街のことを紹介したこの地図を見ると、仁川駅のすぐ前が中華街になっているようである。下船したらまっすぐソウルに向かうつもりだったが、予定を変えて仁川のチャイナタウンに行ってみることにした。
P1010466  仁川港の旅客ターミナルから市内へは、バスかタクシーで向かうことになる。止まっていたバスの表示は当然ハングルなのだが、その中に「동인천역」とあるのを見つけた。「역」は駅のことであり、口に出してみると「ドンインチョンニョク」…「ドン」は「東」だろうから「東仁川駅」ではないかと思った。「東仁川駅」がどんなところかはわからないがとにかく鉄道の駅に近づきそうなので、このバスに乗って「동인천역」を目指すことにした。
 かつて韓国のバスに乗った記憶から車内アナウンスがないのではと思ったがこのバスではあり、さらに主な停留所では英語のアナウンスもあったので無事目的の
「동인천역」-やはり鉄道の駅「東仁川駅」だった-で降りることができた。
 この東仁川駅はソウルと仁川を結ぶ1号線(京仁線)の終点1つ前の駅で、ここから電車で1駅乗ると仁川駅である。
Imgp8253  仁川駅。









Imgp8161  仁川駅の目の前に、中華街の入り口であることを示す大きな門が建っている。
 横にある道路案内の漢字表記は、おそらく中国語話者向けであろうが「華僑街」となっていた。






Imgp8164 Imgp8168  門をくぐると、中国料理店や中国物産店が軒を連ねている。坂が多いのが横浜の中華街とは異なるところか。


Imgp8175Imgp8174  店頭では布製品や陶磁器といった土産物にもなる実用品のほか、青島ビールや白酒(しろざけ、ではない)など飲食品も売られていた。





Imgp8191Imgp8182 Imgp8181Imgp8176 中華街にある仁川華僑中山学校の壁には三国志演義の名場面が壁に描かれており、三国志の物語をたどることができる。坂の上から下へと物語が進んでいくので、仁川駅から中華街に入ってこの三国志壁画通りを目指すと物語の最後「死せる孔明生ける仲達を走らす」の壁画から逆に見ていくことになるが…  

 船の中で手に入れた地図によると、ここ仁川には中国の清朝期、韓国の李氏朝鮮期に中国領事館が建てられ、それを期に今日中華街がある北城洞・善隣洞の一帯が華僑が住むエリアになり、中国から輸入したモノを売ったり韓国の砂金を手に入れたりと交易の場ともしていたとのことである。しかしながら中華人民共和国成立後に中国当局が中国人の外国への移動を制限したことによりこの地域は急速に衰退していったとのことである。地図にあるかつての料理店があった建物の紹介の言葉を借りると「韓国華僑の悲哀」の時代となるのだろう。それから50年の時を経て、これまた地図に書いてあった言葉を借りると「韓中修交を契機に長い眠りから覚め」、2007年の地域特化発展特区指定など中華街復興計画とともにこの一帯も再整備され、中華街としての趣を取り戻しているということになろう。

 この中華街付近には意外な街並みがあるのだが、それは後程。

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2009年10月20日星期二

2009年・環黄海旅行記(18)続・煙台~仁川・船の旅-「香雪蘭(XIANG XUE LAN)」号-

Imgp8127 Imgp8132 前回の続き。煙台を水曜日に出港した「XIANG XUE LAN」=「香雪蘭」号は、翌日の午前中には仁川に到着する。快晴の空の下、本船は仁川に向けて進んでいく。



Imgp8126 Imgp8135  仁川に近づくに連れ、次々と小島が見えてくる。左写真では、かろうじて水面に姿を現している島、というよりは岩礁の上にも、航路標識が建てられている。



P1010458  朝食はわかめスープ。4,000ウォン=24元だったと思う。
 韓国の定食は、付け合わせのキムチなど漬物と小皿とご飯だけでも充分なくらいである。







P1010455  船内に貼られていた、新型インフルエンザへの注意喚起と思しきポスター。日本の4コママンガのような絵で説明されている。







P1010461  船内の通路には、乗船直後から客が持ち込んだ荷物が放置されていた。日本と韓国を結ぶ航路同様に、持ちきれないほどの荷物を持った客が少なからずいる。中国で商品を買いつけてそれをハンドキャリーで運んでいるのだろうか。





Imgp8145  10時過ぎにいよいよ仁川港に入港である。フェリーの多くにはバウスラスターという、船を横移動させる装置がついているので自力で接岸することが出来るのだが、この「香雪蘭」にはそれがないのかあってもそれでは不充分なのか、タグボートの助けを借りての入港であり、まさに貨客船の入港という感じである。



Imgp8147  入港時に、本船前方にあるコンテナを積載しているエリアの近くを通ることができた。コンテナや本船クレーンのあるところを見ると、貨客船に乗っているのだということを改めて思い起こさせてくれる。これより前方に入ることはできず、左側に横切って下船口へ向かう。




P1010462  11時過ぎに下船。やはり短い距離をバスに乗ってターミナルへ移動するため、陸から船の全景をカメラに収めることはできなかった。






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 中国と韓国の間には、この煙台~仁川間のほかにも複数の旅客船航路が運航されている。中国の韓国観光公社(韩国旅游发展局)のウェブサイト旅游计划->入境交通->海运のページに、中国語ではあるが中国~韓国航路の概要が紹介されており以下の航路が運航されているようである。

・煙台~仁川 Hanjoong Ferry(韓国語
・丹東~仁川 丹東国際航運有限公司(韓国語
・大連~仁川 Dain Ferry(韓国語
・営口~仁川 Yingkou Ferry(韓国語
・秦皇島~仁川 Qinin Ferry(韓国語
・石島~仁川 Huadong Ferry(中国語
・連雲港~仁川 連雲港輸渡(中国語)(韓国語
・青島~仁川 Weidong Ferry(中国語)(韓国語
・天津~仁川 Jinchong Ferry(中国語
・日照~平澤 C&Ferry
・龍眼~平澤 Dalong Ferry(韓国語
・連雲港~平澤 連雲港輸渡(中国語)(韓国語

 韓国語のウェブサイトだと雰囲気なりスケジュール表や運賃表と思しきページから内容を類推するしかないが、ウェブサイトにある船の写真や絵を見ると今回乗ったような貨客船タイプのものもあれば、見慣れたフェリー型のものもありそれぞれに特徴がありそうである。日本に住みながらこれらに乗るためにはある程度長めの休みを取らなければならないので実現は難しそうだが、機会があれば他の中韓航路の船にも乗ってみたいものである。

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2009年10月19日星期一

2009年・環黄海旅行記(17)煙台~仁川・船の旅-「香雪蘭(XIANG XUE LAN)」号-

 上海に住んでいた頃、たまには船で一時帰国してみたいと思ったことがある。また、中国各地と仁川など韓国の港との間を結ぶ旅客船もあるので、中国~韓国~日本と船で旅行がてら帰国することが出来ればと思っていた。上海に住んでいるときには叶う事はなかったが、今回それに加えて下関~青島も船で渡り、旅行者としてではあるがかつて思った通り日本・中国・韓国を船で移動する旅を実現することが出来た。
 今回は、煙台から仁川へ船で行くことにした。煙台~仁川間はHanjoong Ferryという会社が運航する「XIANG XUE LAN」=「香雪蘭」という船で結ばれているのだが、、この船を運航している会社のウェブサイトは韓国語だけのようで、何時船が出るかなど詳しい情報は何とかこのウェブサイトを読みこなすかさもなくば他をあてにしなければならない。煙台に着いてから中国側の会社である「烟台中韩轮渡有限公司」の電話番号を備え付けの電話帳で探し、電話して詳細を確かめることができた。事前に煙台発は月・水・金の18時30分だと聞いているがそれは正しいのか、運賃はいくらなのか、切符は当日ターミナルでも買えるのかを聞いたところ、スケジュールはその通りであり運賃は650元と750元であるとのことであった。また切符は当日ターミナルで買えるとのことであった。(注:上記ウェブサイトのHome->About us->C&K Ferry Linesのページに煙台側の連絡先が書いてある)
Imgp8077  出港予定時間の2時間半前に煙台港国際旅客ターミナル(烟台港国际客运站)へ行き切符を買った。ウェブサイトで12万ウォンと紹介されている運賃は650元、14万ウォンと紹介されているほうは750元で、今回は750元の切符を買った。
 まだ出港までには時間があると思ったところ、係員から早く乗船と出国の手続きをするように急かされた。さらに出国手続きの後で船に向かうバスに乗ったところ、ターミナルを管理している人民解放軍の兵士と思われる人から「荷物は(バスの下のスペースに入れず持ったまま乗れ!」「窓を開けるな!」などと口うるさく命令口調で言われた。もとより荷物は少ないので持って乗るつもりだったのだが、楽しかった煙台滞在の最後がこれでは「終わり悪ければすべて悪し」ということになってしまう。
 岸壁には大連行きのフェリーも泊まっていたのでこの近くから乗るのかと思ったが、客を乗せたバスは岸壁を離れ一般車道に入り、10分ほど走ったところにあるコンテナ船のターミナルに泊まっていた「香雪蘭」号の隣で我々を下ろした。このバスを効率よく運航するために急かされたのだろうか?
Imgp8115  以前も書いた通り、最近は国際条約の関係で国際航路の船が発着する岸壁を歩くことができず、自分が乗る船の写真を撮ることもままならない。左写真は船室内に飾られていたカレンダーに描かれていた本船の絵であるが、この「香雪蘭」号は後部に旅客スペースを配しつつ、前方にはコンテナを積むスペースと港に荷役設備がなくてもコンテナの揚げ下ろしをするべくクレーンを配備している。今回はコンテナターミナルからの出港であったが、フェリーターミナルでもコンテナを揚げ下ろしできるように、ということであろう。
 この船の姿をウェブサイトで見て、フェリーとは異なる「貨客船らしさ」が見えたのも煙台~仁川航路に乗ろうと思った動機の1つである。
P1010446  「香雪蘭」号の案内図。車を積むスペースはなく、やはりフェリーというよりは「貨客船」である。








Imgp8084  急かされたこともあり、17時前に乗船してしまった。
 写真は今回利用した2人部屋。他の客が来なかったので1人で利用することができた。部屋では韓国のテレビ放送を見ることが出来る。
 あと、トイレが飛行機のトイレ同様に空気で吸い込むタイプだったのが目新しく感じた。
 もう1ランク下の650元の部屋は4人で1部屋のようである。
2人部屋を1人で利用できたことからわかるように、乗客はあまり多くなかった気がする。乗客には中国人のツアー客や個人客もいたし、韓国人もいて後者のほうが多いかと感じた。

Imgp8090  フロント。船内サービスを担っているのは韓国語のわかる中国人が殆どのようである。朝鮮族の方が多いのだろうか。






Imgp8087  船内には「Casino room」もあり、スロットが並べられている。換金はできるのだろうか。







Imgp8116  食堂。夕食と朝食時にそれぞれ2時間くらい開いている。








P1010443 P1010444  夕食は中国式と韓国式それぞれの定食があり(それぞれ1~2種類であるが)、今回は韓国式の「烧鲅鱼」=「サワラの煮込み」を食した。食堂では韓国ウォンも人民元も使用可能で、確か5,000ウォン=30元だったと思う。
 なかなか美味しかった。韓国料理というと焼肉・プルコギや冷麺、汁物でもサムゲタン・ユッケジャンクッパなどを思い浮かべるが、魚を材料にして韓国料理独特の味付けをするのもとても良いと思う。

Imgp8095  缶ビールやジュースの自動販売機。こちらは韓国ウォンのみが利用可能。350ccのHiteビールが1,500ウォンで、このときは韓国での値段がわからなかったのでそのくらいかと思ったが韓国で買うよりは高いようだ。日本と違い中国・韓国ではビールに関しては免税のメリットはないということだろうか。



Imgp8106  他にも船内にはジムがあったり、









P1010445  足裏マッサージを施術する部屋もあったりする。









P1010449 P1010447  娯楽室。本棚にはマンガ本がたくさん並んでいるが、日本でお馴染みのものがハングルで並んでいる。後で韓国の本屋に入ってみたが、韓国で売られているマンガの多くは日本のものの翻訳であった。


P1010452  売店や免税店。開いている時間は限られているのだが、売店で飲み物を買おうとしたらその限られた営業時間よりも早く店じまいをして鍵を閉めてしまっていた。人民元しか持っておらず自動販売機では飲み物を買えないので売店に行ったのだが、担当者が鍵の管理もしているようでフロントに掛け合っても店は開けてもらえず、結局フロントでいくばくかの人民元を韓国ウォンに換えてもらって自動販売機で買うことになった。このあたりの営業感覚はまだまだといったところか。
 写真が多くなったので、到着時の様子や中国~韓国航路全般のことは後程。

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2009年10月18日星期日

2009年・環黄海旅行記(16)煙台・海岸沿いの建築物

Imgp7834  前に書いたが、煙台山公園から海岸を見渡すと古そうな建物がビルに囲まれて並んでいるのが見えた。このあたりはどんなところなのだろうかと思ったが、煙台の街歩きの最後にこのあたりを歩くことができた。






Imgp7925  張裕酒文化博物館から大馬路を海岸沿いに歩いたところにある広場。







Imgp7934 Imgp7938  この広場の一角に、「十字街歴史街区」と掲げられた通りがあり、閉ざされた門の奥にある建物には「Chile」「South Africa」や「Australia」等、ワインの産地の名前が掲げられていた。通りの部屋は全て改装中のようだったが、ワインの飲めるレストランやワインショップが並ぶ予定なのだろうか。

Imgp7993 Imgp7996  海岸に程近いところにも、ビルに囲まれるように古そうな建物が並んでおり、中には市の文化財であることを記したプレートがあるものもある。これらの建物は、現在も会社やレストランとして使われている。

Imgp8000  左手前の尖った屋根を持つ建物は崇正中学旧址。1900年代初めにキリスト教団体により設立された男子中学なのだとか。
 奥に見える建物はかつてのロシア領事館。今は派出所。





Imgp7997  隣に立つ似た形のこの建物も、かつての崇正中学の校舎である。







Imgp8015  かつてのロシア領事館から海岸を目指す途中には、子どもが水遊びをしている像があった。







Imgp8030  海岸を煙台山公園の方に向かってしばらく歩くと、また古めかしい建物が並んでいるのを見つけた。「広仁路歩行街」という名前の通りのようだ。
 いちばん手前の建物は星がついているから共産党関係の建物かと思ったが「生明电灯股份有限公司」なる会社の跡だとのこと。



Imgp8067  通りの向かいに建つ手すりが目立つ建物は、旧養正小学址。今は子ども向けの音楽学校になっているようで、ピアノの音と走り回る子ども達の足音と歓声が聞こえてきた。






Imgp8050 Imgp8044  この広仁路歩行街にある建物の多くが、歴史的建築物として文化財に指定されている。が、上の音楽学校を除いて営業活動をしているところは殆どなく、多くが改装中で内装を整えていたりしていた。
 上海の新天地のように、ここ広仁路も歴史的建造物を生かした煙台の観光スポット・行楽スポットにしようということなのだろうか。
 これで煙台の街歩きは終わり。事前に調べていれば違う場所も含めてもっとあちこち行くことができたのだろうが、それでも早くに外国に門戸を開き、その名残を街並みに残している煙台の街は歩いていて気持ちが良かった。日本人にとっては馴染みの薄い場所であろうが、それでもかつてこの地に日本領事館があったり日本企業が古くから活動していたりしていた場所であり、青島より知名度は劣るがもっと知られても良い場所だと思う。

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2009年10月17日星期六

2009年・環黄海旅行記(15)煙台・再び海岸を見る

Imgp7932 前回の続き。張裕酒文化博物館の見学の後、再び煙台の海岸へとやってきた。







Imgp7943 Imgp7944  1800年代に外国に門戸を開いた煙台だが、その後中華人民共和国になり文革が終わり、改革開放が叫ばれた1984年には開放都市に指定されている。清朝期に外国との窓口になり、改革開放の波の中でも再びいち早く外国へ扉を開き、時を経て同じ役割を担ったといえる。海岸に置いてある石に、開放都市に指定されたことを記すレリーフが埋め込まれている。
Imgp7953  海岸の殆どは柵で海と隔てられているが、このように海に足をつけることができる場所もある。このときは引き潮だったので多くの人が波打ち際に近づいている。






Imgp7951  海岸では小さな魚が釣れるようで、釣れる度に針からはずしている人がいた。







Imgp7955  海岸の通りには、石で作った亀や蟹、ヒトデが埋め込まれているところがある。







Imgp7964 Imgp8020  煙台から黄海を渡るとその先には大連があり、煙台と大連を結ぶフェリーや旅客船を頻繁に沖合に見ることができる。
 煙台の海岸の建築物や通りについては、また後程。

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2009年・環黄海旅行記(14)煙台・張裕酒文化博物館

Imgp7902 朝陽街と北馬路の交差点から北馬路を海岸方面に向かって歩くと、やはり大きな車道である解放路との交差点で「張裕集団」と書かれた建物が見える。この奥に「張裕酒文化博物館」という、ポルトのワイナリーよろしくこの会社のワイン作りの歴史やワインにまつわる展示を見ることができる場所がある。
 2種類入場券があり、高いほうの入場券を買うと小さいボトルに入ったブランデーを貰うことができる。いずれの入場券でもワインの試飲ができる。

Imgp7909  張裕集団の創始者、張弼士はインドネシアで商売に成功した人物で、後にフランスのボルドーと同じ緯度にある煙台に注目してこの地に葡萄を持ち込みワイン工場を作ったのだとか。何人かの外国人技師を雇い中にはすぐ辞めてしまった人もいるが、外国公館の職員と掛け持ちでこのワイン工場に携わり製造技術を伝授し育てた外国人がいたとの展示があったと記憶している。
 館内ではこうした張裕集団の歴史や彼らが山東省各地に持つ葡萄畑や工場の紹介があり、地下に入ると木樽でワインを保存している場所を見ることができる。
 館内には世界のワインにまつわる展示もある。日本にまつわる展示は残念ながらなかったが、世界で1人あたりワインの消費量が多いのはフランスでその次にイタリアとポルトガルが続き、スペインはフランスの6割ほどで意外にもスロベニア・クロアチア・スイスよりも少ないのだとか。
P1010432  張裕集団のワイン、正直言って上海に住んでいるときには気にしたことがなかった。上海に住んでいた時にレストランでワインを頼むときは、大概「長紅」ブランドのワインであった。それ以外のワインは妙に甘かったり子ども用のシロップ風邪薬のような味がして、正直感心しなかった。
 今回試飲したワインは白はフルーティーな感じだったが「普通のワイン」で、これが廉価に手に入れば中国でも日々ワインを飲むことが出来たのだが、と思える味であった。
 

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2009年10月16日星期五

2009年・環黄海旅行記(13)煙台・朝陽街付近

 前回の続き。煙台を歩いたときの様子をぼちぼちと。
Imgp7777  金海湾酒店を出た付近。朝早くから海岸にやってきて釣り糸を垂れている人が少なからずいる。






Imgp7785  かつて煙台は「芝罘」という地名であった。その名を冠した芝罘倶楽部なる建物。1800年代には当地の外国人の社交場だったのだとか。今は煙台山賓館というホテルの一部。





Imgp7788 Imgp7787  煙台山賓館から煙台山公園の入り口を目指すときに通る、海岸街。こちらも由緒ある建物が並んでいるようだが、今は当地の魚介類を出す料理店が並ぶ。
 料理店のほかに、切り紙や貝殻を売る店があるのが目を引く。

Imgp7853  煙台山公園の入り口にある売店も、美孚洋行なる会社の跡である。







Imgp7857  海岸街を煙台山公園の入り口とは逆に曲がると、朝陽街という古い建物が並ぶ通りがある。
 入り口向かって左はかつての順益商行なる会社の跡。






Imgp7866  朝陽街の街並み。歩行者天国になっていて、飲食店は少なく商店が多く軒を連ねている。








Imgp7865  海岸が近いということもあり、店頭に釣竿を並べている釣竿屋がある。







Imgp7875  朝陽街を途中で曲がった、順太街なる細い通り。








Imgp7884  順太街からその先にある海関街との交差点にある、旧岩城商行跡と名前の付いた建物。日本の会社のようである。







Imgp7891 Imgp7895  再び朝陽街へ。写真左が五洲大薬房(五洲大药房)旧址、右は宝時造鐘厰(宝时造钟厂)旧址。何れもいまでも商店である。
 事前にあまり煙台の街並みのことを調べずに街を歩き、また特に当地にまつわる本を買ったりしなかったので朝陽街のそれぞれの建物の由来はあまりわからないのだが、商店や会社の跡が並んでいるところを見ると、煙台山公園やそれに近いところがかつての領事館や社交場など官庁街だったのに対して、朝陽街はその領事館エリアに続く通りに店を構えた外国の会社が集まっていたところ、ということであろうか。上海の街並みについては住んでいるときに何冊か本を買って調べたことがあるが、煙台の街のことやそこに建つ建物の由来なども、調べてみたいものである。
Imgp7899  朝陽街は、北馬路という車道と交差したところで終わる。その北馬路の向かい側に、やはり歴史があるであろう建物の中に店を構えている商店があった。国旗を売る店のようで店頭に各国の国旗が並んでいたが、早くに外国との窓口となった煙台の街で国旗が並んだ建物を見るというのも、煙台らしい光景だと思う。

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2009年10月15日星期四

2009年・環黄海旅行記(12)煙台・煙台山建築群

 煙台の滞在は一泊だけで、明けた翌日の夕方には仁川行きの船に乗る予定である。1日足らずではあるが、煙台でもあちこち足を運んでみた。まずは煙台山の建築群から。
Imgp7783  今回泊まった金海湾酒店の上に、小山とその上にそびえ立つ灯台が見える。このあたりに、1800年代後半から1900年代前半にかけての外国の領事館などが保存されている。
 煙台は1858年の天津条約で外国に開放され、日本や欧米諸国がこの地に領事館を開き、外国から商人が来て会社を営んだりした。当時の名残りがこの煙台山やその付近に保存されている。

Imgp7851  煙台山公園に入ってすぐのところにあるのは、かつてのアメリカ領事館。内部は博物館になっていて、開港から中華人民共和国になるまでの近現代の煙台にまつわる展示をしている。





Imgp7798  園内の案内には「聯合教堂」の名で紹介されていた建物。この地で働いていた欧米諸国の人たちのための教会だったのだろうか。






Imgp7800 Imgp7801  中国の女性作家・冰心が父親の仕事の関係などでここ煙台に住んだことがあるとかで、かつての「東海関総監察長官官邸」が冰心にまつわる博物館になっている。



Imgp7809  この白い建物は旧東海関副税務司令官邸。内部では京劇にまつわる展示がなされていた。







Imgp7805  こちらは当地で働いていた税関職員の宿舎。








Imgp7808 Imgp7806  煙台には日本も領事館を構えていたが、当時の領事館は博物館になっていたが訪れた日は非公開であった。領事邸宅はおそらく右写真の柵の奥にあるようだが、こちらにも入ることは出来なかった。

Imgp7837  旧英国領事館。売店になっていた。








Imgp7847  旧英国領事館の前の芝生には、とても小さな鳥が群れをなして停まっていた。写真だと小ささがわかりにくいがとても小さい。中学生の頃見た英語の教科書に出てきたhummingbird=ハチドリとも違うし、何という鳥なのだろうか。





Imgp7836  煙台山のてっぺんには灯台があり、エレベーターで上まで登ることができる。







Imgp7825  灯台の上から港方面を見る。煙台と大連の間でフェリーが頻繁に運航されているが、写真の白い船もその中の1隻なのだろう。






Imgp7834  反対側の海岸方面を見下ろす。海岸線と高層ビルにはさまれるように煉瓦色の屋根の建物が並んでいるのが見えた。このときはこの建物も歴史があるものなのか、あるいは当時を模したレストランか何かなのかはよくわからなかった。後からこの辺りも歩いてみたが、古い建物が並ぶ通りの中にはそれらを生かして上海の新天地のような場所にしようとしているところもあるようである。このあたりを歩いたときの写真は後程。

Imgp7812  ここ煙台山公園でも、結婚写真の撮影をしているカップルがいた。海辺の欧風建築、そして海をバックに撮影というのはカップルにとって人気なのだろうか。

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2009年10月14日星期三

2009 東京・中国映画週間

 10月17日(土)から10月25日(日)にかけて新宿と渋谷で「2009 東京・中国映画週間」と称して中国映画が複数上映されるとのことである。オフィシャルのウェブサイトはこちら
 実は先の中国~韓国旅行の際に青島から煙台に移動するバスの中で見た映画のことを調べていたらこの「2009 東京・中国映画週間」のウェブサイトを見つけ、その映画がこの「2009 東京・中国映画週間」で上映されるのを知った次第である。バスの中で見たのは『夜市』(日本語題名:ワンナイト・イン・スーパーマーケット)という映画で、深夜の超市=スーパーマーケットを舞台にそこの店員と彼らに絡んでくる客やオーナーや強盗!が繰り広げるコメディー映画である。馬鹿馬鹿しくはあるのだが、バスに乗っている時間をクスリと笑いながら過ごすには面白い映画であった。同学の間では『非誠勿擾』=『誠意なる婚活』が話題のようであるが…
 芸術の秋、10月は他にも東京国際映画祭があるのだが、ここ何年かこの時期は自由に休むことができなかったり、あるいは上海にいた時期もあったりで映画祭を楽しむことができない。1日くらい映画を見ることが出来れば良いのだが、と思う。

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2009年10月13日星期二

2009年・環黄海旅行記(11)青島・花石楼

Imgp7739  再び海岸付近へと戻り、バスの出発時間までの残り少ない時間で花石楼を訪れた。海岸沿いの八大関風景区というエリアにかつて外国の領事館や外国人住宅が集まっており「万国建築博覧区」と称されているとかで、この花石楼もその1つである。かつてはドイツ総督の別荘だったが一時期蒋介石もここを利用していたことがあるとかで、館内には中国にしては珍しく?「蒋首席玉照」「蒋夫人玉照」(ご真影、くらいの意か)と表示された往時の写真がそのまま残っていたりした。

Imgp7753  塔の頂上から見た海岸の風景。
 確かに花石楼はヨーロッパの古城を思わせるたたずまいであり、それこそ結婚写真の撮影には相応しそうだが・・・






Imgp7747  眼下の岩肌に結婚写真を撮っているカップルがたくさんいた。ウエディングドレスが汚れるかもとかそうしたことは気にしないのだろうか。思い出の結婚写真のためならこのくらい、ということだろうが、ついていくカメラマンや写真館の人は大変そうである。




Imgp7772  駆け足の上ガイドブックでの下調べもせず歩き回った青島だったが、印象に残る風景が多く良い街歩きができた。四方路にあるバスターミナルから煙台行きバスの最終便に乗り、青島とはお別れである。
 煙台へのバスは2階建ての3列シートで、座席が広く快適な3時間のバス移動であった。中国の長距離バスは座席指定があってもいい加減というイメージがあるが、今回は切符に定められた席に座るよう係員に求められたのが意外であった。

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2009年10月12日星期一

2009年・環黄海旅行記(10)青島・微笑照相館

Imgp7674 セント・ポール教会から胶州路を隔てた向かいに「微笑照相馆」と看板を掲げた写真館があるのを見つけた。建物の形といい色使いといい入口の表示といいいかにも「昔の写真館」という風情の建物で、映画に出てきそうな写真館である。




Imgp7676  掲げられていた営業項目は「戸籍用・身分証明書用写真」などごく一般的なものだったが、窓にはエッフェル塔などヨーロッパの風景、そして毛沢東の写真を見る人を撮った白黒写真が貼ってあり、やはり「昔の写真館」といった趣である。こだわりのある館主が営んでいるのだろうか。

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2009年・環黄海旅行記(9)青島・上海路から青島港へと歩く

Imgp7655 青島に着いたときには港からホテルまでタクシーで移動したのだが、その際の風景がやはり気になったので青島滞在最終日の午後にそのあたりを歩いてみようと思い、車窓から見えた教会がある交差点まで行ってそこから港を目指して歩くことにした。
 広い車道である胶州路と上海路の交差点にある赤レンガ色の建物はセント・ポール教会。ロシア人による設計で1940年前後に建てられたとのこと。


Imgp7658  このあたりではトロリーバスが走っている。








Imgp7679 Imgp7681  教会がある胶州路x上海路の交差点で車道を別れ、やや狭い上海路を歩くことにする。交差点からすぐのところにある中学校(日本の中学と高校に相当)は、1900年に宣教師がこの地に建てた礼賢学校に由来するのだとか。他の建物に囲まれておりまた学校の門から先は木々に覆われていて、中をよく見ることはできなかった。
Imgp7684  この辺りの建物も青島の他のエリアで見た建物同様に土色の壁が多いのだが、上海路から西側へ向かって下っていく通りにある建物は白い壁に灰色の屋根のものが多く、他とは異なる色使いであった。港町の日差しに映える白である。





Imgp7690 Imgp7696  上海路から武定路へと、到着時に登ってきた道を下っていくことにする。午前中に金口路で見たのと同じ色使いの建物が並んでいる。



Imgp7699 Imgp7704  武定路にある幼稚園。欧風の屋根に派手な色使いの壁、そして塀には青島の港近くらしく海をテーマにしたかわいらしい絵が並んでいる。



Imgp7698  屋根の形や色、そして部屋の並びなどは上海の旧租界エリアに残る建物同様にヨーロッパの影響、青島にあってはドイツの影響もあるだろう。






Imgp7708  店のショーウィンドーに毛沢東の肖像画が貼ってあった。何かと思ったらミリタリーショップのようである。







Imgp7709  青島のコンビニエンスストアは「友客」ばかりを見かけた。








Imgp7710  包頭路の坂道を下っていく。旅館の前を学校帰りの小学生が歩いている。中国の小学校では親が学校まで迎えに行って一緒に帰るのが一般的なのか、午後3時くらいになると小学校の門前に親や祖父母などが大勢詰め掛けているのを見ることができる。




Imgp7729  列車が通る線路の下をくぐると旅客ターミナルはすぐである。







Imgp7720 Imgp7714  60周年の国慶節がもうすぐということもあり、港湾関係の役所の建物や線路沿いの壁には国慶節を祝う飾り付けがしてあった。





Imgp7736  旅客ターミナルへ到着。向かいの小さな飲食店や商店にはロシア語やハングルの表記も見られたが「外国語ばかり」ということはなかった。

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2009年・環黄海旅行記(8)青島駅界隈

Imgp7570  租界時代の雰囲気を残す魚山路から再び海岸沿いの太平路に行き、桟橋へ戻るとそこから歩いて青島駅に行くことができる。今回は青島から鉄道で移動することはないのだが、青島駅の駅舎は街の雰囲気に逆らわずに煉瓦色の屋根に覆われた落ち着いた色合いの建物である。




Imgp7581  青島駅は1901年の開業とのことである。昨年改装工事が完了し新装オープンとのことであるが、ドイツ風の雰囲気を醸し出した造りになっている。






Imgp7602  駅の南側から西側にかけて。このあたりが新しいのだろうか。アーチ上に凹んだ中からはホームの様子を見ることができる。






Imgp7563  駅の近くでは、リアカーや歩道にモノを並べて売っている人の姿を多く見かける。かりんとうのような芋菓子をリアカーに載せて売っている人がいた。






Imgp7562  こちらは青島らしいというか、貝殻を売っている露店。








Imgp7564  「世界上最牛的火机」と称して売られていたライター。座っている人と比べてその大きさに注目。







Imgp7603  青島駅のすぐ近くは再開発の対象になっているのか、建築中の高層マンションがたくさん建っていた。このあたりはかつてどのような街並みだったのか、気になるところである。





Imgp7633  駅から程近いところにある鉄道局の建物。これも歴史的建造物とされているようだが詳細はわからず。庭の緑と建物が美しく、青空に映えている。






Imgp7637  青島へ向かう船上からこのあたりを見て、煉瓦色の屋根が歴史を感じさせてくれると思ったのだが、歩いてみると新しい街、新しい建物の間に古い街並みや建物が残っているという感じであった。

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2009年・環黄海旅行記(7)青島の細い道に迷い込む

Imgp7469 前回の続き。1900年代前半の雰囲気を残す魚山路界隈を歩いていたら、そこから枝分かれする道の奥にさらに良い雰囲気で住宅が並んでいるのが見えたので、その細い道に入ってみることにした。





Imgp7473  金口三路という名のその細い坂道を登っていく。








Imgp7480  坂を登ったところ。往時の雰囲気を残す住宅が並んでいる。







Imgp7483  金口二路と通りの名前が変わり、家並みに導かれるままにこの道からさらに枝分かれした坂道を登っていく。







Imgp7484  このマンションも、劉知侠という中国の作家の故居として歴史的建造物に指定されている。







Imgp7489Imgp7360  このマンションから坂道を振り返ると、看板の裏側の向こうに海岸が見える。右写真の通り、桟橋付近から青島ビールの看板とその奥に広がる街並みを見たのだが、ここがまさにその街並みなのである。海岸から見て思ったのに相違ない、静かな中に歴史を感じる通りであり街並みである。




Imgp7496  再び家並みに導かれるままに歩いていると、金口一路に突き当たる。このまま先に進むと坂を下りて海岸沿いに着きそうなので、金口一路を戻るように歩くことにした。






Imgp7497  曲面と平面、それに屋根の形や色それぞれに良い雰囲気を出している住宅。







Imgp7513  このあたりを歩いていて気付いたのは、各家々の前にゴミ箱が設置されていることである。この街ではごみの回収制度が整備されている、ということだろうか。






Imgp7517 Imgp7523  上から3番目の写真のところに戻り、登ってきた坂道より1本東側の坂道を下って再び魚山路に戻る。
 租界時代の建物を大事に使い、そして当時の雰囲気を大事に残している街並みは、上海のかつての租界の街並みと同様である。この金口一路~金口三路は上海に住んでいた頃に歩いた街並みを思い出させてくれて、懐かしい思いになった。

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2009年10月11日星期日

2009年・環黄海旅行記(6)続々・青島ぶらりぶらり

 青島の郊外にある労山(崂山)は、「海上第一名山」と呼ばれるほどの場所だそうで、崂山啤酒や崂山可乐などその名がビールや清涼飲料水の名前に冠されておりこの地を象徴する地名にもなっている。青島滞在の最終日に崂山へ行こうとも考えたが、ツアーに参加するのが一般的なようで個人で公共交通機関を乗り継いでまわるのはなかなか難しそうであった。ツアーへの参加は申し込んでなくまた夕方には煙台へ向かうバスに乗らなければいけなかったので今回は崂山へは行かないことにして、タクシーやバスで通りがかったときに街並みや風景が気になったところへ再び行き、そこを歩くことにした。
Imgp7424 Imgp7425  太平路の魯迅公園から程近いところにあるこの家は、かつて日本人の商人が住んでいた住居だそうである。





Imgp7431  太平路に面した小学校。校庭を囲む壁は重厚だが校庭は新しく整備されていて、子ども達の賑やかな声が聞こえてきた。






Imgp7433  近くに教会のような尖った屋根の建物が見えたので行ってみたのだが、門をくぐると毛沢東の筆による碑が建っていた。この青島徳国監獄旧址博物館はドイツの租界だった頃に外国人を収容する監獄として使われ、その後日本軍が監獄として使ったとのことである。戦後すぐの頃は今度は日本人戦犯がここに収容され、その後1995年まで留置所など中国の公安施設として使われたとのことである。門地主は様々に移り変わったが一貫して留置所や監獄として使われた建物、ということになる。
 内部には各時代を再現した部屋や、日本軍が使ったとされる水牢が公開されている。
Imgp7448  このかつて監獄があった場所は今はホテルになっていて、博物館はその敷地の中にある。かつての監獄の隣に泊まる、というのはあまり気分がよくなさそうであるが…






Imgp7457  海沿いの道から一本裏になる、魚山路を歩く。「中国紅卍字会青島分会跡」と紹介されている建物。西欧・中国・イスラムそれぞれの様式が混ざっているのだとか。門が閉まっていて外から眺めるのみ。





Imgp7462 Imgp7467  中国の文化人や学者がかつて住んだ場所、と紹介されている建物がこのあたりには多く並んでいるが、その多くが今でも現役で使われている。



Imgp7553  こちらは文学者・梁実秋の故居。青島大学で教えていた時期があるのだとかで、この家で外国文学の翻訳に励んだと紹介されている。






Imgp7549  坂道の向こうに、天主教堂の屋根が見える。








Imgp7557  江蘇路社区という名前の社区の入り口にて。車で通りがかったときは橋の上からこの社区を見る格好になり、土色の壁と煉瓦色の屋根の建物が並んでいるのが印象に残った。





Imgp7538  中国海洋大学の建物とキャンパス。海洋都市・青島にあって「海洋」の名を大学名に冠しているが理系・文系問わず様々な学部・学科を持つ総合大学である。

 また写真が多くなったので、続きは後程。

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2009年10月10日星期六

2009年・環黄海旅行記(5)青島ビール博物館(青岛啤酒博物馆)

Imgp7367  前回の続き。青島の地図に「青岛啤酒博物馆」の文字を見つけたので、ここへは是非行っておこうと思った。直前まで前述の通り海岸沿いにいたのだが、調べて電話をすると午後4時半までに行けば見ることができるとの返事だったので、タクシーに乗って青島ビール博物館へと向かった。
 「ビール博物館」であるだけに、もっと遅くまで開いていれば中を見た後で心置きなくビールを、となるのだろうがそれをしたら酔っ払いが増えるのだろう。



Imgp7371  博物館の入口。








Imgp7374  1903年にイギリスとドイツの商人がこの地にビールを製造する会社を作り、ドイツの製造技術を使ってビールを作り始めたのが今日の青島ビールにつながるビール作りの流れである。その後第1次世界大戦で山東半島への権益を認められた日本の資本により買収され、「大日本麦酒」の工場としてヱビス・サッポロ・アサヒのブランドでビールを生産していたこともある。
 2003年が青島ビールの100周年に当たるとかでその記念のモニュメント。

Imgp7376  古い建物を利用した博物館では、青島ビールの歴史や現在の活動、代々の瓶やラベル、広告を見ることができる。日本時代のポスターは「いかにも日本のその時代」と言う感じの絵であったのが印象的である。時が流れて1990年代の台湾でのテレビCMも日本のお座敷でビールを飲むものであったが…
 代々の瓶やラベルを見ていると、長きにわたり多種多様な商品が青島ビールから送り出されてきたのがわかる。
 もう1つ別の建物では、青島ビールのかつての製造工程を再現しているほか、現在の製造ラインの一部も見ることができ、目の前で青島ビールが瓶つめされていくのを見ることができた。
P1010391  見学コースの途中では、無濾過ビールを試飲することができ、








Imgp7396 P1010395  見学の最後にもう1度ビールを試飲することができる。中国ではビールを頼むと冷えていないものが出てくることも多いが、ここではどちらも冷えたものが出てきた。



Imgp7405  この青島ビール博物館の前の通りは「啤酒街」と名付けられており、博物館の隣には缶や瓶を使ったり模したりしたオブジェが並んでいる。






Imgp7416  中華人民共和国成立60周年の国慶節前ということで、広場では花を使った飾りつけの準備をしていた。







Imgp7402  博物館の前の通りには、オープンスペースのある中国料理店が並んでいる。ドイツを始めヨーロッパ各地にあるオープンカフェを模したものだろう。テーブルに並んでいるのは中国料理ということでヨーロッパとは違っているが…

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2009年10月9日星期五

2009年・環黄海旅行記(4)続・青島ぶらりぶらり

Imgp7320 Imgp7321 前回の続き。青島の天主教堂から再び海辺を目指して下っていくことにした。この海岸へ向かう安徽路にはさまれるように老舎公園があり、人々が中国囲碁やトランプをしたりベンチでくつろいだりしている。

Imgp7322  ベンチに座っている女性がさしている日傘が目に留まった。日頃使う傘にこのような綺麗な飾りつけをしているのを見たことがない。





Imgp7325 Imgp7332  海岸の通りの一本奥を通る広西路には、租界時代の名残をとどめた建物が並んでいて今でも現役でオフィスや商店として使われている。



Imgp7337  少し東側にもどったところに、青島市人民大会常務委員会の建物が見える。かつてのドイツ総督府、そして日本軍青島司令部であった建物である。






Imgp7341  ここから海へ向かって伸びる短い通りが青島路。「青島市青島路」なのだが、都市に同じ名前の通りというのはあまり見たことがない。上海に「上海路」はあっただろうか。






Imgp7345  この青島路の終点にあったビアガーデン。海を見ながらビールを飲むことができる。







Imgp7349  海岸沿いの通りである太平路にも、洋館形式の建物が並んでいる。







Imgp7359  太平路を西へ歩くと、「桟橋」と呼ばれる場所がある。海に向かって突き出た堤防の先にあずまやが建っている。青島ビールの缶や瓶のラベルに描かれているシンボルマークは、この桟橋なのだとか。写真は左側に小青島を望む桟橋。




Imgp7354  桟橋の根もとでは、遊覧客を乗せたモーターボートが駆け足で付近を走る一方で足漕ぎボートに乗った2人はのんびりと、というところであろうか。






Imgp7360  桟橋付近から見た青島の海岸の様子。青島ビールの看板がかかっている奥に見える、煉瓦色の屋根が映えている街並みは歩いてみたいものだと思った。
 この他にも青島ではあちこち歩いたが、それは後程。

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2009年・環黄海旅行記(3)青島ぶらりぶらり

 出張で青島に来たことはあるが、自由に青島の街を歩き回るのは初めてである。今回はガイドブックを持っていないので、地図を買ってまずは見どころと思しきところを適当に見てまわることにした。
Imgp7201 Imgp7206  ここ青島は昨年の北京五輪でセーリング競技の会場だったが、オフィス街に程近いところに「青島五輪セーリングセンター」があり、敷地内にはホテルや博物館、ヨットハーバーがある。
 中国では広大な国土の中で海に面している場所は相対的に多くはなく、ヨットやボートを趣味にしている人は少ないだろう。
Imgp7224  そのまま西に歩くと五四広場に着く。広場ではウイグル族と思しき若い人が集まっていた。遠く離れたところから青島に来た人同士で一時を過ごし情報交換などをしているのだろうか。




Imgp7229  タクシーに乗り、古い街並みや風景区がある市の西側へ。魯迅公園から突き出た堤防を渡った先には、灯台のある「小青島」と呼ばれる島がある。





Imgp7228  堤防のたもとには海軍博物館がある。退役した潜水艦や軍艦を見ることができるようだ。







Imgp7253  海岸沿いに歩いて少し登ると、康有為故居がある。青島にはこうした中国の著名人がかつて住んだという家があちこちに残されており、青島の歴史を伝えている。
 昼休みを家で過ごすのか、子ども達が勢いよく駈けていった。




Imgp7260  通りで羽根蹴り(踢毽子)をしている男女がいた。ラリー?を続けるのはとても難しそうである。







Imgp7272  青島の街も坂が多い。今年は坂の多い街ばかりを旅している気になる。通りにも石畳が残っているところがある。







Imgp7288  丘の上にある、青島迎賓館。かつてのドイツ提督官邸で、往時青島で暮らしていたドイツ人の写真が館内に貼ってあったり、当時の内装が保存されたりしている。






Imgp7292  このあたりの風景をキャンバスに描いている人がいた。趣のある絵になりそうである。







Imgp7302  迎賓館の西側のロータリーに面して建つ、基督教会。








Imgp7294  青島では写真のような小型の三輪自動車をよく見かけた。駅やバスターミナルなどに停まっていて客待ちをしている三輪自動車タクシーが多かったが、普通のタクシーより参入が容易なのだろうか。
 走る姿を見ているとよく揺れていて、乗り心地はあまりよくなさそうである。



Imgp7306  さらに西へ向かって歩き、天主教堂を目指す。途中の交通警察の建物もそれなりの歴史を持っていそうである。







Imgp7309  天主教堂。青島の街のあちこちからこの天主教堂を見ることができる。







Imgp7308  天主教堂の前の広場では、多くの新婚カップルが写真撮影をしていた。ヨーロッパの雰囲気を醸し出す教会というのは中国のカップルにとっても「絵になる」魅力的な場所なのだろう。
 写真が多くなったので、続きは後程。

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2009年・環黄海旅行記(2)続・下関から青島へ -オリエントフェリー「ゆうとぴあ」-

Imgp7116 前回の続き。下関と青島を結ぶフェリー「ゆうとぴあ」に乗ったのだが、その船内を紹介。







Imgp7086  今回利用したのは2等A船室。2段ベッドだが下段のみが利用されており、上段は荷物置きに使うことができる。







Imgp7089  こちらは2等B船室。国内のフェリーでもよくある大部屋スタイルである。
 このほか個室である特等・1等船室がある。





Imgp7091  自動販売機。船内ではビールが免税価格になり、500ccの缶ビールを250円で買うことができる。そのほか缶ジュースも国内と同じ値段で売っている。
 青島航路だけに青島ビールが気になるが、こちらは売店で売られており、売店が開いている時間に100円で買うことができる。



Imgp7092  青島の日本語フリーペーパーも置かれている。これが青島で流通している全てなのかはわからないが、置いてあるものは夜のクラブの広告が多く、記事の内容・記事や広告の日本語のレベルなど上海のそれとは差があるように感じた。




Imgp7126 Imgp7127  船内にはジムもある。卓球台があるのは青島航路ならではか。
 船内には大浴場もあり、清潔な風呂につかることができる。特等・1等の乗船客には専用の大浴場がある。

P1010363  船内には食堂があり、朝・昼・晩とそれぞれ1時間半くらいずつオープンしている。食堂に限らず売店や大浴場など船内の施設は開いている時間が限られているので、注意が必要である。
 食堂のメニュー。食券制であり中華のほか、カレーや丼といった日本料理も提供されている。食堂に限らず船内で使えるのは日本円のみであった。



P1010365 P1010374  左は初日の昼食で食した「中華定食」(500円)。
 朝食は無料で、右写真のように中国式にお粥や油条などを食する。




Imgp7123 Imgp7194  今年の春にこの下関~青島航路は1,000航海に達したとかで、食堂には1,000航海達成祈念の横断幕が張られていたし、ロビーには下関港から贈られた記念の盾が飾られていた。


Imgp7141  航海中は強風のためとかでずっと船外に出ることができなかったが、青島到着直前にアナウンスがあり船から青島の街をみることができた。もっともこの日は雨模様で視界が悪く、青島の街はもやがかかった向こうにぼんやりと見えるのみであった。
 風景を背景にポーズをとって写真を撮っている中国人の乗船客が少なからずいたが、彼らにとっては馴染みの風景なのだろうから天気がよくない中でわざわざ写真を撮ることは何か意味があるのだろうか、と思った。
Imgp7166  「青岛港欢迎您」の看板が見えると、いよいよ青島港に到着である。






Imgp7178  港には別のフェリーが停泊していた。「NEW GOLDEN BRIDGE 5」(新金橋5)というフェリーで、青島と韓国の仁川を1晩で結んでいる。






Imgp7183  新金橋5号の前方に本船は着岸。定刻の16時より若干早い時間であった。
 ここで下船して入国審査に向かうのだが、先の記事で書いたとおり最近は国際条約の定めで岸壁を歩くことができず乗客はバスで移動するのだが、この効率がよくなく下船に時間がかかった。
 入国審査の前の検疫では、新型インフルエンザの絡みからか泊まるホテルの電話番号など連絡先が厳しく求められ、通り一遍ではない検査だった。
Imgp7195  港の外に出たときは既に16時を過ぎていた。港では両替はできず、近くの交通銀行を教えてもらったが日曜日は16時で閉まってしまい両替はできず、さらにATMも見当たらず現金を引き出すことができなかった。通りの店の人に聞き、線路下をくぐり陵县支路→包头路と歩いた先にあるコンビニにATMを見つけてようやく現金を調達することができた。中国に生活の基盤があったり中国のことを知っているならともかく、旅行者にとっては目先の現金がなく港からの移動もままならず困惑するのではなかろうか。あるいは実は港のどこかに両替所があったのだろうか。
 コンビニのATMには、「近くに臨時の電話が置いてあっても信じるな」という警告が書かれていた。中国の振り込め詐欺には「故障したときの連絡先」を装って現金を振り込ませたりする手口があるのだろうか。

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2009年10月8日星期四

2009年・環黄海旅行記(1)下関から青島へ -オリエントフェリー「ゆうとぴあ」-

 しばらくポルトガル旅行のことばかり書いてきたが、先月の5連休に2日休暇を加え、さらにその後の土日と9連休の休みを取りまた旅行に行ってきた。今回は下関からまずフェリーで中国・青島を目指し、その後山東半島を横切り煙台へ行ったあとで船に乗って今度は韓国・仁川へ行き、最後は釜山から博多へやはりフェリーで戻ってくるというルートで、船中で3泊する旅であった。
 まずは下関から青島へ向かうフェリーの様子から。
Imgp7072  下関駅から歩いて5分、下関港国際旅客ターミナルが見えてくる。建物の右には、やはり下関から出発する釜山向けのフェリー、釜関フェリー(関釜フェリーの韓国側の船)のSEONG HEE号の煙突が見える。




Imgp7076  ここ下関港から週2階、毎週水曜日と土曜日に青島への船が出ている。オリエントフェリーが運航するこの青島向けフェリーは正午に下関を出発し、翌日の午後4時に青島着というスケジュールである。
 切符は旅行代理店で買うことが出来るほか、当日下関港で買うことができる。予め旅行代理店で買ったほうが安心ではあるが手数料がかかることがあるので、春節など中国への帰国シーズンで混むときでなければ窓口で直接かうのも一策である。(上記スケジュールは2009年10月現在)

Imgp7079  船内には関釜フェリーの模型が飾られていた。オリエントフェリーと関釜フェリーは同じグループの会社である。







Imgp7080 Imgp7082  ターミナルの中には下関と青島の友好都市30周年を祝う垂れ幕が飾ってあり、また下関から船が出ている各都市の写真も飾られていた。



Imgp7081  こちらは下関へ来る韓国の人への案内。最寄りの教会の住所も教えているのがユニークである。






Imgp7085  今回乗ったフェリーは「ゆうとぴあ」号(UTOPIA)。いざフェリーに乗り込むのだが、最近はテロ防止とかで国際条約が厳しく国際航路の船に乗るときには岸壁を歩くことができず、わずかな距離をバスに乗って移動する。船の写真もガラス越しにしか写すことができない。




Imgp7098  定刻より15分くらい早く、本船は青島へ向けて出港。まずは後進をしながら岸壁を離れる。







Imgp7099  同じグループで運航する、「ゆうとぴあ2」(UTOPIA 2)。先月まで下関と蘇州・太倉港を結ぶ航路に投入されていたが、今月から別の船がその航路に入ることになり今は係船されて次の出番を待っているのだとか。




Imgp7113  下関に別れを告げ、青島への船路へ。







Imgp7105  この船は関門大橋はくぐらず、関門海峡を背にして玄界灘方面へ向かう。北に関門大橋を見る格好になりまたターミナルの位置を誤解していたので豊後水道方面へ向かうのかと思ってしまったが、関門海峡は入り組んでいるのでどこへ向かうのか把握するのが難しい。



Imgp7104  関門海峡を行き交うコンテナ船や貨物船。







P1010341  出港してすぐ、右側に巌流島を見ることができる。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の舞台として名前には聞くが、目にするのは初めてである。島には往時の事を記録する石碑や像があるらしいが、船から見ると工場を背にする小さな島である。
 出港後、関門海峡を抜けるまでの約30分は船のデッキにいることが出来たが、その後は強風のためとかで青島に着くまで船外に出ることはできなかった。
 写真が多くなったので、船内の様子や青島着の話は後程。

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2009年8月15日星期六

『あの戦争から遠く離れて』


 中国残留孤児を父に持つ筆者による、父親の激動の半生を中心としたノンフィクション『あの戦争から遠く離れて』を読んだ。
 日中戦争で両親と生き別れになり中国で「孫玉福」として育てられた父親の養母や友人などとの交流、「日本人」であることを意識するが故にまた反右派闘争期や文革期といった時代背景ゆえの苦悩や苦労が前半に描かれ、中国残留孤児の問題がクローズアップされる前に日本への帰国を果たした彼の娘として生まれた筆者が「知っておくべきことがたくさんあるのでは」と感じて長春に留学し、中国での父の親戚との出会いや学校の内外で「日本鬼子」呼ばわりされる経験を経て、父が生きた中国にいろいろと思いを巡らすさまが後半に書かれている。
 父がかつて一緒に暮らした親戚や親友を娘である筆者が訪ねると、帰国後かなり時間が経っているにもかかわらず皆一様に「玉福の娘」として迎えてくれ、父の昔のことを話してくれる。父親の人生と筆者の人生が、父親の足跡をたどり親戚や友人の話を聞くことを通じて1つにつながっていくようである。また、この本には「私につながる歴史をたどる旅」という副題がついているが、父の生き方をたどり話を聞くことで日中戦争や文化大革命、残留孤児の問題といった歴史上の事象(残留孤児の問題は今日的出来事であるが)を「私にまつわるできごと」として吸収している様子がうかがえる。

 筆者は文中で、「戦争を禁忌としてきた『戦後』は、ひたすら戦争を忘れようとする『戦後』でもあったのではないだろうか。そして戦後六十数年を経て、今や私たちは『忘れてしまった』ことすらも忘れつつある世界を眼の前にしているようだ。」と述べている。
 私が子どもの頃、原爆の日や8月15日には追悼を示す消防署のサイレンが鳴っていたが、今住んでいるところではそれを聞くことはない。かつてはこの時期になるとこうしたサイレンやテレビ番組で戦争や戦後すぐの時期を意識させられたが、最近はそうしたものが薄れてきているような気がする。
 先に触れた台湾での「日本語世代」同様、「あの戦争」を知っている、語ることのできる人も少なくなってきている。私が小学生の頃には「親や親戚から戦争の経験談を聞いてきなさい」という宿題が出て、多くの子どもが親から話を聞きだすことができたしそうでなくても授業でお互いが集めた話を聞くことで「あの戦争」を少しは「我がこと」として感じることができた。今ではそうした話を小学生が聞きだすのは昔より難しくなっているだろうし、これから「あの戦争」に対する距離感や感じ方は変わっていくのだろう。

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2009年7月2日星期四

中国、検閲ソフトのパソコン掲載義務化延期

 中国で販売されるパソコンには「有害サイト」=都合の悪いウェブサイトへの接続を遮断できるソフトのインストールが義務付けられるとかで以前拙ブログでもこのことに触れたが、昨日(7月1日)の日本経済新聞国際面によると各方面からの反発やソフト自体に問題があるとかでこの措置は延期されるとのこと。

検閲ソフトのパソコン搭載 中国、義務化を延期
日米欧の撤回要請 配慮か

 中国政府は30日、7月1日から予定していた国内販売パソコンへの「検閲ソフト」搭載義務づけを延期すると発表した。一部パソコン会社が大量のソフト搭載には時間が必要と主張しているたっめとしているが、日米欧の撤回要請に配慮したとみられている。延期期間など詳細は明らかにしていない。(後略)

 この検閲ソフト、記事中では「グリーン・ダム」という名前で紹介されている。中国語では何というのだろうか。「绿坝」かな?
 海外からの反発に加え、この「グリーン・ダム」自体が設計技術を盗用しているとアメリカのソフトウェア会社からクレームを受けていたり欠陥が指摘されていると記事では述べている。
 さらに記事では、中国国内のネット利用者からも反発の声が上がり1万4千件を超える抗議の署名が集まったことや、有力経済誌が「権力の乱用を避けるため、有害情報のろ過では強制的な手段をとらず、市民の選択権を尊重すべきだ」とする論評を配信したり、中国当局が批判的な報道を規制する通達を出したことにも触れている。
 施行前日や期近になって突然通達を出すのはよくあることだが、やはり検閲ソフトのパソコン掲載を強引に進める環境にはなかった、ということであろう。諦めたとは言っていないが当局が強引に事を進めなかった、というのも印象的である。
 もっとも、だからといってネット上の情報に対する検閲が無いわけではなく、プロバイダ側でフィルタリングをかける、ということは相変わらず行われているのだろう。検閲ソフトの件も諦めたわけではないだろうし、またこの件が蒸し返されるのだろう。
 他方、記事によるとパソコン購入者の殆どがこの検閲ソフトのことを知らなかったのだとか。市民の知らぬ間に情報統制がなされ市民の思考形成に影響を及ぼす、ということが大いにありそうである。

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2009年6月10日星期三

中国、パソコンに検閲ソフト義務付け

 今後中国で売られるパソコンには「有害サイトへの接続を遮断できる」ソフトをインストールすることが義務付けられると、昨日(6月9日)の日本経済新聞国際面に載っていた。

中国、検閲ソフト義務化 全パソコン 来月から
反体制情報など統制

中国政府は7月から、中国国内で販売するパソコン全製品について、有害サイトへの接続が遮断できるよう義務付ける。中国メーカーが開発した「検閲ソフト」が取り付けの対象となる。10月に建国60周年を控えた中国当局は社会安定に向けて情報統制をさらに強め、反体制的なネット上の書き込みなどの摘発を徹底させるとみられる。(中略)
検閲ソフトは、政府が有害情報に当たると判定したキーワードやホームページを自動的に検出できる中国当局のシステムと連動。わいせつ画像など特定ホームページへの接続を遮断する。(中略)
中国が来年5月に導入予定のIT(情報技術)セキュリティー製品の強制開示制度を含めたネット情報に対する一連の監督強化について、公安当局者は「ネット上に飛び交う党・政府に批判的な情報を完全に把握するのが目的だ」と指摘した。(後略)

 同趣旨の記事は、NIKKEI NETにも掲載されている(記事)。ここで言われている「有害サイト」は、日本で言われているような青少年に有害なサイトだけでなく政治的に、特に当局にとって不都合なウェブサイトも指しており、むしろ後者の意味合いが強い。
 中国で特定のウェブサイトが見られないというのはよく言われる話で、私も上海に住んでいたときに経験した。それは「有害」とされる特定のウェブサイトに対してプロバイダー側でアクセス制限をかけるというもので、中国の殆どのプロバイダーがこれを行っている(行わさせられている)ことから中国国内からは「有害な」ウェブサイトは見られないということである。今度はそれに加えて、パソコンにもこうしたフィルタリングソフトの導入を義務付ける、というものである。中国の国ぐるみでのアクセス制限をおおっぴらに認めたものだといえる。
 日本でも、PCや携帯電話で子どもや少年に見せたくないウェブサイトへのアクセス制限をかけるソフトがあるが、それを政治目的で、自分達にとって都合の悪いウェブサイトを遮断するためにアクセス制限を掛けるためにパソコン側にも細工をしよう、させようというものが今回の中国当局の目論みである。
 それにしても、「有害情報に当たると判定したキーワードやホームページを自動的に検出できる中国当局のシステムと連動」、どんなものなのだろうか。不都合な言葉や写真が並んでいるウェブサイトへの遮断をするものなのだろうが、ウイルスソフトのアップデートよろしく「更新情報」が送られてきたり、新しい「有害サイト」対策で「自動アップデート」がされたりするのだろうか。ソフトウェアだからアンインストールも出来るのか、あるいは「このソフトが入っていないとウェブサイトに接続できない」とか「OSへの組み込みが義務付けられる」のだろうか。輸入されるパソコンも対象になるとかで、量産品は網にかかってしまうのだろうが個人輸入までも厳しくなりはしないかと心配してしまう。
 そして、「有害サイトにアクセスした」PCが特定されてしまう、という恐ろしい状況も危惧してしまう。あるいはこのソフト経由でPCが動かないようにしてしまうとか…あったりすると空恐ろしい。

 私が中国にいた頃は、有害だと判断されたウェブサイトのみならずそれと同じサービスもろとも遮断されていた。だから、Seesaaのブログは全部中国からは見られないとかGeocitiesも全部ダメとか(現在は状況が違うでしょう)、巻き添えで見られないウェブサイトが99%以上を占めるのでは、という感じだった。今回の遮断ソフトも作りが粗っぽくておなじことになりはしないか、というのも心配である。
 かつて私は「中国のインターネット統制は遮断から『見せて批判・教化』に舵を切ったかも」と書いたことがあったが、どうやら違ったようである。

 同日の日本経済新聞は「中国はIT強制開示の撤回を」という社説を載せ、やはり問題になっている、中国でIT製品を販売する際にその基幹ソフトウェアの設計図を中国側に提供することを義務付けられようとしていることを批判している。中国当局が、「中国で売りたければキモの部分まで技術移転をしろ」「中国で売りたければ中国の情報統制に協力しろ」という考えを持っていることが見えてくる。
 アクセス制限も「上有政策下有対策->上に政策あれば、下に対策あり」で乗り切ることができればいいのだが…

(かつて書いた関連記事-今は状況が違う部分が多いでしょう。カテゴリーを作ったほうがいいのでしょうか)
 接続できないウェブサイトにつなげよう
 アクセスできないウェブサイト
 書き込み制限
 アクセスできないウェブサイト その後
 Wikipediaに接続できない
 Seesaaブログに接続できない
 インターネットの敵
 続・インターネットの敵
 北京・東莞からはアクセス可能?
 中国からココログへのアクセス制限?
 中国からココログへのアクセス制限?-その後-
 中国西南部-久々に中国のインターネット環境が気になった-  
 Yahoo!JAPANに接続できない?
 インターネット統制の転換?
 中国から見られない動画サイトと、見られない中国の動画サイト

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2009年6月4日星期四

あれから20年

 今日、2009年6月4日は中国で起こった「あの事件」から20周年の日である。
 この年はベルリンの壁崩壊やルーマニア革命など、東欧では大きな政治的変革があった。それら変革に至るまでの道程、多くの市民が広場に集まったり壁を壊したりという「多くの市民が集結し」「多くの市民が関わった」象徴的な場面がテレビの映像で映し出され、東欧における変革を印象付けた。ところが、中国ではやはり多くの市民が広場に集まり政治的変革を目指したが、東欧と異なりそれらは成就せず、民主化運動とその鎮圧しか記録に・記憶に残らなかった。
 あの事件から20年を迎え、当時の学生運動の指導者に関する動向が伝えられている。SANKEI-MSN記事から。

民主化リーダー、ウアルカイシ氏の入境拒否 中国の封じ込め巧妙化 

 【北京=野口東秀】1989年の天安門事件で、「反革命宣伝扇動罪」の疑いで指名手配され台北で亡命生活を送っていた民主化運動リーダーの一人、ウアルカイシ氏(41)が3日、出頭するため空路到着した中国特別行政区マカオで入境を拒否された。当局は、同氏の出頭は「民主化運動の宣伝」が目的とみて、追い返したい考えだ。当局は北京で大量の治安要員を配置、民主活動家を外出させない体制を敷いており、活動を封じ込める手法は巧妙化している。
 関係者によると、同氏は天安門事件から20年となる4日に合わせて、「公開裁判で中国の事件への責任を追及する」ためにマカオ入りした。中国当局が逮捕に踏み切れば、国際的に知られる同氏への対応に注目が集まるのは必至。国内外で民主化勢力や遺族、知識人が勢いづくことが予想される。このため、当局側は台北に戻るよう求めたが、同氏は拒否。空港内に留め置き、4日に改めて送還を試みるもようだ。
(後略)

 引用で事件の名前が出てしまいましたね…
 事件後台湾に移住した当時の学生指導者の1人が、思うところあり大陸へ行こうとしたところマカオで足止めされ、当局側は強制送還しようとしているとのことである。別の報道では「マカオで拘束」と報じられ20年越しの逮捕かと思ったが、実際は上記のように中国にとっての「厄介払い」という状況のようである。
 運動が失敗に終わった後、指導者たちの多くは国外に亡命していたが、そうした学生運動家の1人による、鎮圧に抗議し民主化を訴える寄稿が翌年台湾の国外向け短波ラジオ「自由中国の声」の機関紙に載っていたのを読んだことがある(それを英語の授業でのスピーチのネタにしたことがありましたが…覚えてますか>同学)。当時の台湾はさすがに「大陸反抗」という雰囲気ではなかったが、国営のラジオ放送でこうした学生運動指導者の主張を大々的に伝えるところに当時の対中観が現れていたといえよう。

 

毎日.jpでも事件から20年にまつわる特集記事が掲載されている(()()())。前述中記事中の学生運動指導者はその後台湾に渡りIT企業を営んでいるのだとか。他の運動家たちも中国を離れ亡命生活が長くなり、中国を客観的に観る立ち位置になってしまったためか中国や中国社会との「繋がり」を保つのが難しくなったのか、中国との距離が開いてしまったように読める。そしてこの事件は彼らにとっても「回顧される」事件になってしまったのだろうか。

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2009年5月26日星期二

続々・中国の携帯電話

 長らく第2世代のGSM方式が主流であった中国の携帯電話だが、今年に入ってより高速な通信が可能な第3世代(3G)の通信方式の免許が各キャリアに交付され、今年を「3G元年」と位置付けて主に都市部で売り込んでいくようである。
 その3Gの通信方式であるが、中国移動(China Mobile)が中国独自規格といえるTD-SCDMA、中国聯通(China Unicom)がW-CDMA、中国電信(China Telecom)がCDMA2000である。中国聯通のW-CDMAは日本のNTTドコモ・ソフトバンクと、CDMA2000はAUと同規格なので、周波数帯があえばローミングが可能である。今後暫くすると、中国で日本の携帯電話のスイッチを入れると中国聯通や中国電信の3Gにローミングされるのだろうか。もっとも、日本と同様にウェブサイトを見たりすると高額なローミング料の請求が来そうだが…

 気になるのは中国移動がTD-SCDMAを使っていることである。中国最大手の中国移動が中国独自規格であるTD-SCDMAを使っていることで、各メーカーに「中国で売りたければ中国独自規格のTD-SCDMAを携帯電話に組み込みなさい」と言っているように取れる。今までは各メーカーが他国で売っている携帯電話を中国で売ろうとするときには3Gの通信を組み込まないものに改めて中国市場に投入しないといけなかったが、今後は3GをTD-SCDMAに差し替えて投入しないといけないのだろうか。また、発展途上国への影響力を利用してこの規格を普及させて主導権を握ろう、という計画があるようにも取れる。

Img_0037  かつて上海にいた頃に日本に一時帰国すると、日本の携帯電話がとても大きく見えたことがあった(その時の記事はこちら)。中国にいた頃は略通話オンリーだったので機能がシンプルな携帯電話で事足りていて、余分な機能はついていない小さな携帯電話を使っていた。GSM方式で通信速度に期待できない頃にあっては大きな画面は不要で、携帯電話にカメラ機能や音楽機能やスマートフォンを期待するのでなければ小さな携帯電話で事足りたのだと思う。
 写真は私が中国で使っていた携帯電話(但し写真はフランスでローミング中)。MOTOROLAのMOTO C168という、電話とメールとFMラジオというシンプルなもので、写真だと大きさがわかりにくいが78グラムと軽量であった。
 が、3Gになるとより高速な通信が可能になり、料金を別にすれば細やかなウェブサイトを見ることができたり音楽ダウンロードがスムーズになるなど今までとは違った通信環境になる。日本だと携帯電話を「電話」として使っている人よりは電車の中などでウェブサイトを見たりと「電話以外の用途で携帯電話を使っている」人をよく見る。くどいようだが料金を別にすれば同じことが中国でも可能になる。
 前述したように日本の携帯電話が大きいのは大画面を備えてウェブサイトやメールの閲覧など「電話以外の用途」を充実させた結果である。中国でも日本と同様になると見込んで日本同様に大画面&大きな携帯電話を中国市場に投入していけるのか、都市部など一部だけにそうした利用者がいてもペイするのか、あるいはやはり電話とメール中心の利用者が引き続き大多数を占めるので今までとあまり変わらないのか、中国側がどう仕向けるかも含めて日本や各国のメーカーの関心毎であろう。

 日本の「ケータイ文化」、前述のような3Gを用いた電話以外の用途の売込みを日本側が図っているのだとか。フジサンケイビジネスアイ記事より(配信は共同通信)。

日中、携帯電話協力で合意 「3G元年」の中国に売り込み

 鳩山邦夫総務相は5日、北京で中国の李毅中工業情報相と会談し、中国で今年免許が交付された第3世代携帯電話(3G)のコンテンツ分野で協力を進める覚書に署名した。
 光ファイバー回線並みの高速通信ができ、日本で来春以降に実用化が見込まれる次世代携帯電話の研究開発でも協力する。
 NTTドコモの山田隆持社長をはじめ、携帯電話各社のトップらが会談に同席、官民合同で6億人を超える利用者を抱える中国に日本の進んだ「ケータイ文化」の売り込みを図った。
 日本ではドコモの「FOMA」など3Gのサービスが普及しているが、中国政府は年初に3Gの免許を国内通信3社に交付、「3G元年」と位置付ける。最大手の中国移動通信が中国独自の「TD-SCDMA」、中国聯通がドコモやソフトバンクモバイルなどと同じ「W-CDMA」、中国電信がKDDIと同一の「CDMA2000」を採用している。(共同)

 

NIKKEI NET記事では、上述のソフト面のみならずハード面でも中国における第3世代やその後のインフラ整備で日中が相互協力していくことが伝えられている。

次世代携帯、日中が協力 端末やインフラ整備、首相会談で合意へ

 麻生太郎首相と中国の温家宝首相は29日に北京で会談し、次世代携帯電話の開発に向けた技術協力の枠組みづくりで合意する。中国で主流となる通信規格が、日本と同じ第三世代携帯電話(3G)や、第3.9世代(3.9G)に移行するのを見据え、両政府が新たな端末開発やインフラ整備で連携する官民協力を主導。動画などコンテンツの共同研究も促す。技術協力をテコに約6億5000万件とされる世界最大の携帯電話市場への日本企業の進出を後押しする。
 麻生首相は29日から中国を訪問。両首相の会談では、戦略的互恵関係の強化の一環として、次世代携帯電話を柱とする情報通信技術分野の協力で合意する見通しだ。

 フジサンケイビジネスアイの記事ではNTTドコモの名前が出ているが、日本のキャリアのみならず日本のメーカーにしても、かつて中国市場で成功したとはいえなかったが今回の3G導入で巻き返しを図り、大画面など3G対応で売り込みたいというところもあるだろう。

 もう1つ、3Gの下では「接続制限」などはあるのだろうかが気になるところである。PCからの閲覧同様にウェブサイトの閲覧制限は3Gの下でコントロールされるのだろうか。されそうな気がするが。

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2009年5月25日星期一

内藤大助の防衛戦・上海開催は中止

 以前拙ブログで触れた、ボクシングのWBC世界フライ級王者・内藤大助が上海で防衛戦をするという話は、手配に不備があり中止になったそうである。日刊スポーツ記事

内藤中国戦中止、相手変えず26日都内で

 プロボクシングWBC世界フライ級王者内藤大助(34=宮田)が、26日に中国・上海で予定していた5度目の防衛戦が、開催3日前の23日に急きょ日本国内に変更された。中国の現地プロモーターが、開催に必要な書類手続きをしていなかったことが発覚。26日までに準備が整わないため、内藤が所属する宮田ジム側が国内開催への変更を決断した。試合は同じ26日に都内で開催する予定で、挑戦者も同じ熊朝忠(26=中国)で調整している。
 5度目の防衛戦を3日後に控えた内藤に、前代未聞のトラブルが降り掛かった。中国入り前日の23日、急きょ開催地が中国から日本に変更された。アウェーでの防衛戦へ万全の準備を整え、25日には現地で調印式と前日計量に臨む予定だった王者にとって、まさに寝耳に水のことだった。
 内藤が所属する宮田ジムの説明によると、宮田博行会長らスタッフは試合に先駆け、21日に中国・上海入りした。その時点で、現地プロモーターに依頼していた事務的処理が滞っていることが発覚した。翌22日に同会長らが北京の国家体育総局に掛け合い、興行実現に必要な複数の手続きを完了させたものの、肝心の会場、盧湾体育館の使用許可などが間に合わなかった。土、日を挟むこともあり、試合が行われる26日までに書類をそろえるのが不可能になった。使用許可に同様の手間がかかる中国の他会場での開催も断念、ジム側がこの日になって国内での開催を決断した。現地入りしている日本ボクシングコミッションの安河内剛事務局長も「プロモーターの問題」と話した。
(以下略)

 試合3日前に上海での興行中止、代替地を探すというドタバタである。
 中国側のプロモーターがなすべきであった手配が滞っていたとかで、「中国ビジネス本」に「中方に仕事を任せていたら仕事が先に進まず失敗した」「よくある悪い例」として書かれてしまいそうな顛末である(もっとも、報道によると内藤選手の所属ジムは「監督不行き届き」を認めているようである。誰の主催興行だとか契約関係など権利義務関係が不明ですが…)。本来なら試合直前にこのような事態に陥れば試合は中止もしくは延期なのだろうが、テレビ局の都合で日程は変えられないとかで日本で同日開催の線で調整しているとのことである。かつてはそのテレビ局に「亀田大毅の引き立て役」として扱われ、今度はそのテレビ局のために中止することができないとは皮肉なものである。もし中止だったら「1ラウンドKO決着だった」と思って昔の映像、TBS系だと具志堅用高とか渡嘉敷勝男とか鬼塚勝也とかの映像でお茶を濁せばいいのに。
 この報道の後、何とか会場は都内のディファ有明に決まり対戦カードも変えずに行われるようだが、試合直前、本来ならば予備検診が行われたりするタイミングでこのトラブルでは両選手のコンディションや気持ちの持ち方に大きな影響を与えているだろう。もともと1ヶ月前に急遽決まったタイトルマッチ、開催直前によもやのドタバタである。
 ただ予定期日通りの開催と決まったからには、難しいだろうが与えられた条件の中で、選手のみならず関係者が皆ベストを尽くして欲しいと期待するのみである。

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2009年5月24日星期日

続・中国の携帯電話

 前回の続き。中国の携帯電話キャリアは、中国移動通信(China Mobile)と中国聯合通信(China Unicom)の2社である。私が上海にいた頃は中国移動がGSM方式で、中国聯通はGSM方式に加えてそれよりやや高速で通信できるとされているCDMA方式のサービスも提供していたが、CDMAサービスは固定電話サービス会社である中国電信(China Telecom)に移管されている。その中国電信であるが、PHSサービス(小霊通という)を提供していたがそのうち廃止するようだ。
 利用シェアは中国移動が一番大きく、少し古いが2007年4月末時点で中国移動のシェアは67.5%になるのだとか(サーチナによる記事)。

Img_1410  前述の通り中国では回線契約と携帯電話の購入は別物であるため、SIMカードを手に入れて別途買った携帯電話に挿して使うことになる。そのSIMカードであるが、電話会社の営業所のみならず、街のコンビニエンスストアや新聞スタンド、小さな商店などあちこちで扱っており、街を歩いていると写真のような「各種電話カードあります」といった看板を掲げた店によく出くわすので入手に不自由はしないだろう。上海だと地下鉄の駅にもSIMカードを取り扱っている店がある。






Img_0444  こうしたところで手に入るのはプリペイド方式のSIMカードである。買うのに身分証明書の提示は求められず、気軽に購入することができる(もっとも、使い始めてすぐに「あなたの権利保全のため最寄りの窓口で利用者登録してください」というメールが来た)。確か50元の通話料が購入時に含まれていたと思う。
 面白いのは、電話番号によって値段が違うことである。「縁起がいい」と中国の人に思われる番号のSIMカードには高値がついている。「8」が多かったり覚えやすかったりすると高くなり「4」が発音的には縁起が悪いと見られるのか、日本人的には値段の差がどこに由来するのかよくわからないのだが…
 日本の携帯電話を中国に持ち込むとローミング可能なものもあるが、日本と同じ感覚で使っていると帰国後にとても高い電話代の請求が来る。出張者など中国に住んでいない人でも、使い方によっては中国のSIMカードを現地で買うのもいいだろう。
 プリペイドは気軽に購入できるがポストペイド(後払い)になるには敷居が高く、料金プランによるが一定期間の利用実績が良好であることが求められたり、場合によってはその都市の戸籍を持っているかその人に保証人になってもらう必要があったりした。

 料金プランは、例えば中国移動の場合だと下記のような感じである。
・神州行…基本料金が無料。追加8元/月の利用料で着信が無料になったり(中国の携帯電話は着信にも料金がかかる)、16元/月で通話料が安くなったりという各種プランがある。
・動感地帯…正直よくわかりませんが、定額の月額利用料を払うと一定量のメールが無料になるのだとか。そのほか音楽ダウンロードのサービスが受けられるとか。
・全球通…月額利用料の中に一定時間の通話料が含まれている。申請すれば国際ローミングも可能。高級会員という位置づけなのか、全球通利用者用のラウンジがある空港があった。

 動感地帯や全球通の各種料金プランには「~套餐」という名前がついている。「~定食」のような意味合いなのだが、無料通話や無料メール、通話料割引などの組み合わせを表した言い得て妙な表現といえよう。日本の携帯電話料金はそれぞれの料金プランごとに月額利用料・含まれる無料通話・それを超えた場合の通話料が異なりどれが自分に適した料金プランなのかわかりにくかったが、中国でも「全球通58套餐58元档」(月々の支払いが58元)がいいのか「58套餐158元档」(毎月158元)がいいのか迷うかもしれないし、廉価な神州行でも8元払って着信無料にするのがいいのか16元払って通話料を安くするのがいいのかなど、電話の掛け方・受け方次第でお得なプランが違ってくる。

Img_2560  他方、携帯電話端末は国内・海外各メーカーによる熾烈な販売競争が繰り広げられている。かつてはNOKIA・MOTOROLA・SONY ERICSSON・SAMSUNGといった外国メーカーが幅を利かせる一方、中国メーカーはこれに割って入ろうとするも今ひとつという感であった。最近はMOTOROLAが世界各地で振るわないようだが、それも含めて最近は様子が違うのだろうか。
 携帯電話の値段であるが、2年前で通話だけor通話とFMラジオだけという携帯電話だと1,000元以下、130万画素くらいのカメラがつくと1,000元~2,000元、それ以上のカメラや充実した音楽機能がついたり、Windows Mobile掲載のスマートフォンになるとそれ以上という感じであった。GSM方式という通信速度があまり期待できない通信方式の下にあるため、ソフト面の充実度よりはカメラや音楽機能といったハード面が値段を左右していた。かつては日本ではインセンティブで「ゼロ円携帯」「1円携帯」というものもあった一方、所得水準を考えると中国の携帯電話は中国の人たちにとって割高なはずなのだが、それでも中国の都市部では誰もが携帯電話を持っている。
 日本メーカーはこうした環境の違いや中国でのマーケティングがうまくいかなかったのか、私がいた頃にはさっぱりであった。最近またシャープが中国市場に参入しているようであるが、うまくいくだろうか。

 長らくGSM方式という第2世代の通信方式に拠っていた中国の携帯電話であるが、今年に入って日本同様の第3世代(3G)の通信方式も導入しだした。これについてはまた別途。

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2009年5月17日星期日

中国の携帯電話

 中国を離れて2年近く経つが、今更のように中国の携帯電話の話などを。
 中国の携帯電話の加入台数は2008年半ばには6億人を超えているのだとか。1990年代に旅行で中国を訪れたときにはオフィスは別にして固定電話もあまり普及しておらず、街角に電話を並べた電話屋で電話をしている人が多かった(上海にいた頃もこうした電話屋はあった。日本の煙草屋のようなものか)。それが固定電話の普及を飛ばして携帯電話の普及に至ってしまい、日本のように「固定電話が家庭に普及し、それから携帯電話の時代に」という順番を省略して一足飛びに携帯電話の時代になったと言える。
Img_3086  日本では携帯電話の購入と回線の契約はセットになっている。第2世代(NTT DocomoのmovaやソフトバンクのSoftbank 2GといったPDC方式など)では携帯電話に番号情報が組み込まれており、また今使われている第3世代になっても電話と回線契約はセットになっていて、例えばドコモと契約をしている人がソフトバンクの携帯電話のデザインが気に入り、ドコモと契約したままそれを使いたいと思ってもそれはできない。
 他方中国では今でも第2世代がスタンダードであるが、こちらはGSM方式と呼ばれる方式を使っており、この方式ではSIMカードと呼ばれる電話番号などの情報を記録したICカードを携帯電話に挿して使うようになっている。このため、回線の契約と携帯電話を買うのは別行動であり、また携帯電話がどこかの通信会社専用ということもなく、気に入った携帯電話を買って使うことになる(日本の第3世代もSIMカード方式だが、携帯電話機が他の通信会社のSIMカードを受け付けないようになっている)。世界ではこのGSM方式のほうが一般的であり、日本のほうが例外的とも言える。
 このように携帯電話と回線契約が分離しているため、中古の携帯電話=二手机のマーケットが存在する。雑居ビルの一角や小さな店で中古の携帯が売られている。
 また、「携帯電話と回線が分離している」ということはSIMカードを抜き取ってしまえば誰の携帯電話かわからなくなるわけで、このため携帯電話泥棒も横行する。私も携帯電話を置き忘れ、すぐ気付いて自分の番号に電話したがもうSIMカードを抜き取られた後なのか通話不能になっていたことがあった。携帯電話を置き忘れたり落としたりしたら最後、心無い人に拾われるとSIMカードを抜き取られ自分のものにされるか「二手机」として売り飛ばされてしまう。
 長くなったので、続きは別途。

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2009年5月12日星期二

あれから1年

20090512157 20090512155 この前麻布界隈にはあまり来ないと言いながら六本木ヒルズの展望台に来てみたのは、四川大地震(汶川大地震)にまつわる写真の展示をここでやっていると聞いたからである。1年前には事態が明らかになるに連れ増えていく犠牲者の数や、地震により生じた堰き止め湖の決壊のおそれなどが毎日報じられていたが、かく言う私も含めその後の関心は地震から1年経ったことが伝えられるまで薄くなっていってしまった。地震発生直後の報道写真とこの主催団体の活動を中心に発生からしばらく経った後の様子をあまり多くはない写真で伝えているが、地震から半年あまり経ってから被災地域を撮った写真を見ると復興の困難さ、ひいてはかつて人が住んでいた集落がそのまま打ち捨てられてしまうのではということさえ感じさせる。
 それでも、学校が建て直され新しい校舎が建っている様子が紹介されたり(建て直しが進まない学校も多いのだろうが)、再び学び始めている小学生などの写真を見ると将来への希望を感じさせてくれる。私自身は幸いにして災害で学びを妨げられたことはないのだが、罹災した子ども達が悲しみや困難を乗り越え、再び将来のことを考えられるようになりそれに向けて学べるようになっていると嬉しい。
 六本木ヒルズの展望台は些か浮世離れした感があるが、もっと日常の中でこうしたことを思い起こしたり考えることができる場所でも展示があるといいのに、と思った。六本木ヒルズを開発した森ビルは上海にも金茂大厦や上海環球金融中心を建てるなど中国との縁も深いので、六本木ヒルズでの展示はそうした縁もあるのかもしれない。

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2009年5月2日星期六

内藤大助、上海で防衛戦

 ボクシングのWBCフライ級王者・内藤大助が、5月26日に中国人の挑戦者を相手に上海で防衛戦を行うとか。スポーツ報知記事

内藤「暴れてやるぞ」…WBC世界フライ級

 プロボクシングWBC世界フライ級王者の内藤大助(34)=宮田=が5月26日に上海で、同級14位の熊朝忠(26)=中国=の挑戦を受けることが23日、所属ジムから発表された。
 記者会見した内藤は、5度目の防衛戦に向けて「敵地で思い切り暴れてやるぞ、という気持ち」と意気込みを語った。日本人世界王者が海外で防衛戦に臨むのは、1985年に韓国でWBC世界ジュニアバンタム級(現スーパーフライ級)王座を防衛した渡辺二郎以来となる。
 所属ジムの宮田博行会長によると、熊朝忠は小柄ながら、強打が持ち味の右ボクサーファイター。実際に試合を見た同会長は「威圧感があって脅威を感じる」と警戒した。

 この前後に成都でWBCの総会が開かれるとかで、中国でのタイトルマッチはこれにあわせた開催とのことである。
 内藤選手が所属する宮田ジムプレスリリースによると、このタイトルマッチに加えて女子の東洋タイトルマッチ2試合に日本人選手が出場するようである。場所は「源深体育中心」だとか。浦東にある体育館である。
 このプレスリリースでは上海での世界戦は初めてと触れている。もっとも戦前には上海でボクシングが行われていたと史料にはあるが、中国での世界戦自体少ないのだが北京で行われた「中国で久々のタイトルマッチ」を1993年に旅行中にテレビで観たしその後も何度か中国でのボクシング興行は報じられてはいるが、上海では初めてというのは意外である。
 開催1ヶ月前の決定、敵地しかも中国での試合、無名かつランキング下位の挑戦者、で番狂わせを心配してしまうが、しっかりと調整してそんな心配を吹き飛ばす試合を、そして内藤選手自身がキャッチフレーズとして使う「国民の期待」に相応しい試合を期待したい。

(追記:5月25日)残念ながらこの興行は現地の手配が整わず中止、防衛戦は東京で開催だとか。

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2009年5月1日星期五

労働節の日に『赤壁-決戦天下』を観る

 今日はメーデー。中国ではかつてこの日の前後が7連休という大型連休だったが、去年から労働節休暇は短くなり、今年は5月1日から3日までの3連休である。他方、日本では今年は(土曜日に休めれば)5月2日から6日まで5連休であり、メーデー自体は祝日ではないがこの時期に中国よりも長い連休である。また、メーデーは休業日という会社に勤めている人はもう1日休みが長くなるし、あるいは「4月30日と5月1日に休暇を取る」とか「5月7日・8日に休暇を取る」とかして大型連休を楽しんでいる人もいるのではないだろうか。もっとも、「生産縮小で連休に」という場合はあまり喜べないが…
 昔は5月3日の憲法記念日が日曜だと4日が振替休日になって3連休、土曜日とあわせて4連休だった記憶があるが、今は5月4日もいつのまにか「みどりの日」として祝日になり振替休日は「その日後においてその日に最も近い『国民の祝日』でない日」が当たるとかで今年は5月6日も休み。外にいてカレンダーを見ることが出来ないときにふと「5月6日は平日なのでは?」と考えてしまった。

 私の勤務先もメーデーは休業日。もっとも出社予定だったのだが急に出社に及ばずということになり、時間が空いたので『レッドクリフ Part Ⅱ』(音が出るので注意)を観に行った。
 今日は映画サービスデーとかで、1,000円で観ることができた。メーデーとは言え平日の昼間なので、結構な人の入りだったが満席ということはなかった。
 『レッドクリフ Part Ⅰ』がその前哨戦から赤壁の戦いに向かう途中で突然終わってしまい不完全燃焼の感があったが、『Part Ⅱ』では赤壁の戦いを舞台に梁朝偉が演じる周瑜と金城武が演じる孔明との智慧溢れるやり取り、そして張豊毅が演じる曹操がこれに絡んでくる展開、そしてその曹操が2人の策略に嵌っていく有様が楽しめたと思う。林志玲が演じる小喬、『Part Ⅰ』ではお飾りの感があったが『Part Ⅱ』では物語に溶け込んでいたし、今回は「勝敗を決する重要な役回り」でもあった。
 趙微扮する孫尚香が曹操軍にスパイとして乗り込み、それを知らずに男装の彼女-「デブ助」(胖猪?)と名乗っていた-に優しく接する兵士・叔財との交流、そして戦場での再開と別れがサイドストーリーと言えるが、別れのシーン-叔財が再開直後に矢を射たれて絶命する-がとても呆気なく感じた。戦国の世におけるほんの僅かの時間の再開、そして孫尚香が間者として騙していた彼の落命を目にする、というところに趣があるのだろうか。叔財を演じた俳優は、佟大為といって中国では有名なようですね。

 1つ突っ込みを入れるとすれば、曹操軍で兵士がサッカーのような競技に興じていた。サッカーより狭いグラウンドで複数の小さなゴールに球を入れる競技に興じていて、孫尚香と叔財の出会いのきっかけもこの場面なのであるが、これは「サッカー中国起源説」のアピールなのだろうか?字幕では「蹴鞠」と記され中国語でも「蹴鞠」と言っていたような気がするが、この球遊びも物語の鍵の一つになっていた。
*FIFAも中国の蹴鞠をサッカーの起源の1つとして認めていますが…

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2009年3月25日星期三

中国から見られない動画サイトと、見られない中国の動画サイト

 YouTubeが、中国から見ることができなくなっているのだとか。ロイターに載った記事

中国でユーチューブへのアクセス不可に、当局は関知否定

 [北京 24日 ロイター] 中国では23日遅くから米グーグル(GOOG.O: 株価, 企業情報, レポート)傘下の動画共有サイト「ユーチューブ」へのアクセスがブロックされているとみられるが、同国外務省の秦剛報道官は24日、その事実を認識していないと述べた。
 同報道官は記者団に対し「多くの人は中国政府がインターネットを恐れていると誤解している。実際にはそれは逆だ」とも語った。
 一方、グーグルの広報担当スコット・ルービン氏は、中国国内ではユーチューブへのアクセスが過去24時間ブロックされていることを確認。アクセス制限の理由を確認するためユーチューブが当局側と接触しているかどうかについては言及を差し控えた。
 同社によると、グーグルとユーチューブが過去にも、中国で短い期間アクセスがブロックされたことがあるという。

 ITmedia Newsにも同じことに触れた記事がある。擬似的に「中国のインターネット環境」を作って(要は中国のプロキシを噛ませる)YouTubeにアクセスすると、Firefoxでは「接続が遮断されました」と表示されて確かに接続できない。
 過去に何度も書いたが、中国では特定のウェブサイトにアクセスできないように当局がコントロールすることが可能だとされており、その際は特定のページだけでなくそのウェブサイトが属するサービスやサーバーもろとも接続できなくなることが多い。私が上海に住んでいた頃もそうした「万里の長城」に悩まされた。今回もその一環なのだろうか。
 2ヶ月前に、中国当局が特定のウェブサイトを指して「低俗」だと非難したことについて節ブログで触れたが、その際に中国当局はインターネット統制の手段について好ましくないとされるウェブサイトを「遮断」することに加え、ウェブサイトを見せて「低俗」などど価値判断を示す「教育」という手段も使い出したのでは、と述べた。しかしながら、やはり「遮断」による統制がまだまだ重用されている、ということだろうか。私が上海にいた頃は、中国に都合の悪い記事がアップされる可能性のあるウェブサイト(台湾の新聞や政府機関)に加え「無料で自分の主張をアップロードできるサービス」、例えば無料のホームページサービスがこうした遮断のターゲットになっていたと考えるが、YouTubeもまさにその一例であろう。

 前述のYouTubeとは逆に、中国の動画サイトが日本からのアクセスを遮断している、と報じられている。少し古いが、ITmedia News記事

  中国の動画共有サイト「Tudou(土豆)」と「Youku(優酷)」が日本からのアクセスを遮断している。トップページや動画ページは表示できるが、動 画再生画面には「あなたの地域では動画を見られない」という内容の英語メッセージが表示され、再生できなくなっている。
 YoukuやTodouには、日本のアニメなどが数多くアップロードされており、日本からのアクセスも増えていた(中国の動画サイト「Youku」日本で人気 ニコニコ動画並みの伸び)。
 中国の報道などによると、Todouは今年に入って日本のIPアドレスからのアクセスを遮断、Youkuも数カ月前から同様の措置を取っているという。
 両サイトには日本のテレビ局から、著作権を侵害した動画の削除要請が寄せられているという。今回の措置は、著作権侵害に関するクレームを回避する狙いや、サーバ・ネットワークコストを削減する狙いがあるとみられている。

 試しに文中に紹介されているYouku(忧酷)にアクセスしたところ、動画が出てくるべきところに「The clip has been blocked in your region」と表示される。
  「日本のアニメなどが数多くアップロードされており」とかで、要は著作権に問題のある動画が数多くアップロードされているということであろう。ブログの中 にも、このYoukuにアップされたアニメなどにリンクしている記事を見かける(そして、それらのリンクには「The clip has been blocked~」の表示がされている)。

 自国の外への接続は遮断し、他方では国内の業者は海外からのクレームを逃れるために海外からの接続を遮断する、という有様は、我々が標準と思っているインターネット接続の基準と大きくかけ離れているといえよう。

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2009年3月1日星期日

中国語のインターネットラジオ

 上海に住んでいた頃、タクシーに乗るとラジオがかかっていることが多く、街でよく聞く歌が聞こえてきてその歌の題名が気になったり、時には日本の歌が流れてきたりした。また、所謂「大本営発表」ではあるがニュースを聞いて考えることもあったり、天気予報を聞いたりもした。
 そうした上海のラジオのみならず、中国語のインターネットラジオについて、国学院大学の針谷壮一先生がご自身のウェブサイトに各ラジオ局のアドレスをまとめてくださっている。そのページではそれぞれのラジオ局のストリーミングに直接リンクしていて、クリックすると対応している様式に応じてWindows Media PlayerやRealplayerが立ち上がり、あるいはそのラジオ局のウェブサイト経由で聴くようになっているものではそのウェブサイトが立ち上がり、各局のインターネットラジオ放送を聴くことができる。上海のタクシーで「Love Radio 103.7」とアナウンスとともに音楽が流れてきた上海東方広播電台 Love Radio (103.7MHz)も、その他の上海のラジオ局、さらには中国や台湾、シンガポール始め世界各地の中国語インターネットラジオを聴くことができる。
 いくつか聴いた中で興味を引いたのがシンガポールのRadio1003。もとがAM放送なので音質はそれなりだが、土・日曜には日本の音楽を流す番組もあり、シンガポール在住の日本人が座談会形式のトークをし、それをDJが中国語で説明したりもしていた。他の番組では中国語の音楽も楽しんで聴くことができる。
 実際に台湾なり中国なりに住んでいるわけではなく、ラジオ以外に商店の店頭で流れている音楽を聴いているわけではなく、インターネット経由で聴くことができるとはいえ現地のラジオを聴く時間は少ない。従って「どんな曲が、どんな歌手が流行っているか」を現地の人たちと同様に感じるのは難しいと思う。それでも、Love Radioを聴いていると上海にいた時の雰囲気を少しではあるが味わうことができるし、他の中国語ラジオ局を聴くことで台湾気分・中国気分・シンガポール気分などに少しは浸ることができるのではなかろうか。
 また、中国語のヒアリング学習という点でもこれらインターネットラジオは役に立つのではないだろうか。私が(くどいがH送大学の、ではない)学生だった頃に「中国語のラジオを聞いて文章に起こす」という課題を課せられたことがあったが、当時は短波放送を録音してそうした課題に当たらねばならなかった。その先生が「短波放送を聴くことの難しさ」をわかっておられたのか定かではなくもなぜか皆その課題には対応していたが、今はこうしたインターネットラジオで容易に中国語のラジオを聴くことができる。

 前述のように短波放送で中国語のラジオ(のみならず世界各国のラジオ)を聞いていた頃からすると、インターネットで中国・中国語のみならず世界各地のラジオ放送をインターネット経由で聴くことができるようになるとは本当に便利になったものである。もっとも、インターネットに定額で繋ぐことができる環境が必須であり、そうでないと「バケ死」、通信料金が高額になってしまう。
 これら中国語インターネットラジオを携帯電話のようなモバイル環境で聴くことを画策しているが、それはそのうち。

(追記)中国から、台湾やシンガポールなどのインターネットラジオを聴くことができるのだろうか?昔は大陸から台湾の行政機関やマスコミのウェブサイトには接続できなかったが、最近は規制の向きを変えているかもしれないがどうだろうか。

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2009年2月23日星期一

『世界ふれあい街歩き 厦門 コロンス島』

 昨日NHKで放送された『世界ふれあい街歩き 厦門 コロンス島』を録画しておいたので、今日改めて視聴した。
 私は厦門=アモイには行ったことはないので全く知らない街の街歩きを観る格好になるのだが、印象に残ったのは元・厦門博物館館長を勤められた方が厦門の歴史を簡単に紹介するくだりである。アヘン戦争の後に共同租界となった厦門・コロンス島には各国が領事館を構え、それゆえに教会や学校が多く建てられ、さらに繁栄振りを見た華僑が故郷に錦を飾らんとコロンス島に立派な屋敷を構えるのがステータスシンボルになったのだとか。そんな厦門も日中戦争・中華人民共和国建国やそれに続く文化大革命により往時の様子を失い、取り壊しを免れた立派な邸宅は農民や労働者に分け与えられたとのことである。
 これは上海の街並みにも当てはまるのではなかろうか。上海で当局に歴史的建築物として指定されている建物の中には今でも市民が住んでいるものが少なからずあり、これらは「記念館」としての扱いではなく現役の住居である。また、上海の小区=里弄も昔の姿を残しつつ、今でも上海の人たちが普通に生活を営んでいる。歴史的建築物で今でも生活を営んでいる人がいるのはアモイ同様に中華人民共和国成立後、とりわけ文化大革命の中でお金持ちではない普通の人に住宅として分配されてそれが入れ替わりもあり今に至るということがあるのかもしれないし、小区=里弄ではやはり人が入れ替わりつつ集団住宅での生活が今でも続いているのだろう。かつての租界ゆえの歴史が、それぞれの街並みに影響を及ぼしてきたのだろう。厦門の話を観て、上海の街並みを思い浮かべた。

 テレビに映る街並みを見ると、租界時代の影響を受けているところは上海に似ているがより南方にあるということで木々が上海のそれと違っており、この暖かさが「厦門らしい」のだろう。
 街並み以外では、車が禁止されているコロンス島で子どもが乗った小さな車をラジコンで操縦し、「環境にやさしい車だよ」とウィットに富んだ冗談を飛ばす若いお父さんが印象に残った。こうした車は自分で漕ぐことができるようにならないと乗ることができないが、他に車が走っていないコロンス島ではラジコンだと目を届かせつつ小さい子どもも乗せることができるのですね。
 厦門はここと台湾統治下の金門島を船で結ぶ「小三通」の起点でもあり、外国人に開放されればアモイから金門島に船に乗って渡ってみたいと思っていたが、そのアモイ自身にも見るところがありそうである。

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2009年2月11日星期三

池袋北口・西口界隈

 池袋駅北口付近には中国食材店や中国料理店が集まっており、またそうした場所に多くの中国人が集まっている。この界隈を「池袋チャイナタウン」と呼ぶ人もいる。筑波大学・山下清海教授のウェブサイトの中に、この界隈を紹介したページがありその中でこの名を冠している。
 先月のことであるが、そんな池袋北口界隈を、そして西口界隈を歩いてみた。
20090110051  池袋駅北口を出てすぐ、線路沿いに歩いて最初の交差点を折れると「陽光城」という名前の中国食材店がある。







20090110052  その向かいのビルには、「知音」という看板を掲げたやはり中国食材店がある。品揃えはいろいろあり、スーパーマーケットといった感じである。店の中では中国語がデフォルトで、日本語が通じないときもある。店内には食堂もある。





20090110056  先述の交差点を斜めに入ると、「富麗華」と書いてある看板が見える。1階・2階は楽楽屋という居酒屋や中国料理店なのだが、3階はカラオケボックスになっている。このカラオケボックス、中国語の歌をふんだんに収めたシステムが入っており、中国や台湾のカラオケボックス同様に中国語圏の歌を歌える。日本の普通のカラオケ(昨年4月に行ったときにはUGAだった)も入っているので日本語と中国語のカラオケを同時に楽しめ、中国語のわからない人でも楽しむことができよう。
 このカラオケボックスは3階にあるのだが、2階の料理店の厨房を通った先に3階に向かう階段がある。初めて入る時にはちょっと驚くというか入り難いかもしれない。店員は中国の人だが、精算したときのレシートは普通の(日本語の)明細だった。
20090110058  ここからクランク状に北に向かってあるくと、へいわ通りという名前の通りがある。







20090110059 20090110062  この通りに、中国料理店が数多く並んでいる。夜になると店内には中国語の会話が飛び交っているが、休日の昼間ということもシャッターを閉じている店が多かった。
 池袋に限らず、「中華料理」ではなく中国料理を掲げる店には、「東北菜」、中国東北部の料理を看板に掲げる店が多いような気がする。
 例えば水煮魚を売りにする、あるいは水煮魚は川魚ベースだから厳しいにしても唐辛子だけの平板な辛さではない、山椒などもきっちり交えた四川菜の廉価な店があってもいいのに。

20090110063  池袋には家電量販店もあるのだが、小さいビルの一角には小さなパソコンショップがあり、中国語の宣伝を掲げるとともに在日中国人向けの新聞を店頭に置いている。






20090110065  北口界隈から、池袋西口界隈へ。池袋駅から行くと駅前の大通りを直進し、五差路を右に曲がる。北口同様に中国料理店の看板が見えるが、このあたりには韓国食材店の看板もたまに見える。





20090110066  そんな路地に、「線條 手打餃子専門店」の看板を見かけた。看板の上には「本場台湾」の文字が見える。この界隈にある中国系の店とは違うようだ。
 いろいろな餃子の写真やその紹介・メニューが店頭を飾っている。




20090110067  店内は2人掛けのテーブルが3つという小さなものである。ここで店の人に勧められるままに「如意餃子」を頼んでみた。木の実が入った餃子など中の餡は6種それぞれ違い、皮にも野菜が練りこんであるものがあるとかで、違う味が楽しめる。餡の味が、台湾で食べる「何か」を思い起こさせた。
 店番をしていた方はこの店が何冊かの雑誌で紹介されたことをしきりに紹介してくれたが、確かに普段外で食べる餃子にはあまりない味で、美味しく戴いた。と共に、この店番の方の話から、池袋の「中国系」とは違い、オーナーが台湾出身で台湾の味をアレンジしようとした店であるということを聞かせてくれた。
 今回池袋を歩いていちばんの収穫は、この餃子店であった。

 この池袋北口・西口界隈で「池袋チャイナタウン」を大々的に掲げて売り出そうという提案が、この地を拠点にする中国の人を中心に出されている。@niftyに掲載された内外タイムスの記事はこちら。横浜や神戸の中華街とは違う、最近中国から来た人たちによるチャイナタウン、ということであろうか。ここだけでなくても中国語がよく耳に入る池袋であるが、中国を感じさせる店が密集しているというわけではなく、街の中に多数点在している、という感じである。
 私が学生だった頃(くどいようだがH送大学の、ではない)から既に池袋は中国の人が他所よりも多く行き来する街で、前述のようだったか定かではないが中国人が営む飲食店がちらほらとあったと記憶している。

 例えば、上海の古北エリアは日本人が多く住み日本人がよく出入りする街として知られ、また龍柏新村あたりは韓国料理店が並び韓国人が多く住んでいる。しかしながらこれらの街は日本人や韓国人だけで担われているのではなく、もとから住んでいた、あるいはこれらに職を求める中国人によって街が成り立っているのだと思う。「古北には日本人が多く、日本食材店がたくさんある」「龍柏には韓国人向けのマンションや店が多い」という話は聴くしそれはそれで現状なのだが、「古北日本街」「龍柏韓国街」という言われ方をされるとそれはどうか、と思われるだろうし言うのは如何かとも思う。
 「池袋チャイナタウン」構想はもとから住んだり商いを営んでいる人なしには成り立たないだろうし、それらを無視した構想は歓迎されないのではないだろうか。古北の日本人や龍柏の韓国人と逆の立場にあってどう街と関わっていくか、ということだと思う。

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2009年1月17日星期六

インターネット統制の転換?

 少し前のニュースだが、中国でMSN等のウェブサイトが「低俗」だと当局から批判されているのだとか。そのMSNに(日本のだが)配信された共同通信の記事

中国、「MSN中国」も低俗と批判

 9日付の中国各紙によると、中国政府は8日、社会道徳にそぐわない「低俗な内容」が多数含まれているとして、ソフトウエア最大手の米マイクロソフトが運営するインターネットの中国語版ポータルサイト「MSN中国」など14サイトを新たに「低俗サイト」として公表した。
 中国政府が今週着手したネット上のわいせつ情報などの取り締まり強化対策の一環で、リスト公表は2回目。1回目の「低俗サイト」リストでは、米ネット検索大手グーグルなど19のサイトが名指しで批判を受けた。
 MSN中国については、一部に「大量の低俗な絵や写真が含まれている」と指摘している。(共同)

 中国共産党の機関紙『人民日報』のウェブサイト版である人民網その記事があった。

全国整治互联网低俗之风第二批曝光网站名单
MSN中国、TOM等榜上有名

  人民网1月8日电  中国互联网协会互联网违法和不良信息举报中心今日公布了全国整治互联网低俗之风第二批曝光网站名单。
    互联网违法和不良信息举报中心根据公众举报核查,下列网站存在大量违背社会公德、损害青少年身心健康的低俗内容,且在全国整治互联网低俗之风专项行动开展之后未采取有效措施,现予公布。

  1、“MSN中国”网站的“电影”频道、社区的“精品贴图”版块存在大量低俗图片;
  2、“TOM网”的“娱乐”频道、“体育”频道、“汽车”频道存在大量色情和低俗图片;
  3、“空中网”的“娱乐”频道“写真”栏目存在大量低俗视频;
  4、“西部网”的“体育图片”栏目存在大量低俗图片;
  5、“聚友网”社区的“精品贴图”版块存在大量低俗图片;
  6、“易车会”网站的“相册”、“汽车图库”版块存在大量低俗图片;
  7、“游民星空”的“游戏mm”频道存在大量低俗图片;
  8、“52PK网”的“美女写真”栏目存在大量低俗图片;
  9、“POCO”网的“图片”频道存在大量低俗图片;
  10、“17173游戏”的“美眉”频道存在大量低俗图片;
  11、“合众网”的“美女视频”栏目存在大量低俗视频;
  12、“小虎在线”WAP网站“视频搜索”栏目存在大量低俗视频;

 1ヶ所「色情和低俗图片」という記載があるが、他は「低俗」の一言で片付けられており、どう「低俗」なのかわからない。日本の報道だと「内容が低俗」と報じられているが、中国側の記事を見ると画像が「低俗」だと言っているように捉えられる。“汽车图库”に「低俗」な写真、というのはレースクィーンの写真を指して言っているのか、高価な外車の写真を指しているのか。“精品”の写真も「低俗」だ、としているのは何だろうか。特定のサイトの「追い落とし」にも見えなくもない。
 私が上海にいた頃は、拙ブログにも何度か書いたが外国のウェブサイトのうち特定のものを見ることができず、「遮断」という方法がインターネット統制の中心だったと思う。最近では拙ブログに戴いたコメントなどによるとそうした制限は緩和された節が窺えるが、そのかわりウェブサイトを見せ、「このウェブサイトは低俗だ」と「教育」するのをインターネット統制の手段に加えた、ということだろうか。

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2009年1月4日星期日

2008年12月・大理旅行(3)-日本四僧塔-

 大理古城から程近いところに、「天龍八部影視城」というところがある。「影視城」というのは映画村の意味であり、中国の小説『天龍八部』をテレビドラマ化した際のセットをテーマパークとして公開しているところである。
Imgp3402  この影視城の中に、「日本四僧塔」という名前の塔がある。明朝期に内乱に連座して当時明に渡っていた日本人僧侶4人がこの地に流されてそのまま没し、それを悼んだ大理の人たちがここに塔を建て、21世紀の今に至るまで供養を続けてきたとのことである。そしてその話を映画『単騎、千里を走る』のロケで雲南省を訪れていた主演の高倉健と監督の張芸謀が聞き、感銘を受けて寄付をしてこの塔を整備せしめて現在の姿になったとのことである。2人による碑文も塔の下にある(下写真、なおロケ地は大理と並ぶ風光明媚な観光地である麗江やその近郊などとのこと)。

Imgp3397  600年以上前に明に渡るのも容易ではないし、その後さらに流刑に遭いさらに当時の明朝の海禁政策により帰国の路を絶たれ大理で生涯を終えた僧侶、そしてその話が今に伝えられていることに思いを馳せる。交通が発達した今日、日本から大理に行くのは1日かそれ以上かかるのだが、それでも今日の我々は自由に行き来することができる。そうではない、渡るにも覚悟が必要で、渡った後に戻れなくなってしまった4人の日本人僧侶の心中、とりわけ故郷を思う気持ちはいかばかりだっただろうか。

Imgp3405  この日本四僧塔に参るためには、先の「天龍八部影視城」に入場料(52元!)を払って入らないといけない。参拝するためにテーマパークに入場料を払わないといけないの何だか…という感があるし、日本四僧塔の故事とテーマパークというのがあまり馴染まないのだが、何にせよこの故事は語り継いで欲しいものである。


Imgp3407  テーマパークでのワンカット。600年前の大理も、鮮やかな花が街や村を彩っていたのだろうか。

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2009年1月3日星期六

2008年12月・大理旅行(2)-大理郊外-

Imgp3252 前回の続き。今回の大理旅行でも、乗用車をチャーターして大理郊外へ出た。
 旧市街である大理古城から30分ほど走ると、前回もそして16年前にも訪れた喜州という小さな街がある。この街では白壁の家が並んでおり、そのうちの1軒を白族民居として観光スポットにし、中でペー族の風習である舞踊や三道茶を披露している。今は絶え間なく観光客が訪れるようだが、16年前に現地で参加したツアーでここを気に入って翌日路線バスに乗ってもう一度訪ねた時には訪問客が私一人だけだったのだが、一人の客のために民族舞踊を披露してくれた。今では中国の人も当時に比べていろいろな面で自由に旅行ができるようになり「客が一人だけ」ということはないのだろうし観光地としての色彩はより強くなっているが、時が流れてもペー族の風習を観光客に伝えてくれる。
 写真のように三方が住居なり倉庫なり、残る一方が壁である「三房一照壁」がペー族の家の特徴だそうだ。前回の訪問時には壁が高いのが財力の証だと教えてもらったが、今回は壁の前の花壇が子孫繁栄を願って(実がたくさんなるように)のことだと教えてもらった。
Imgp3216  ペー族の家の玄関の上の飾り。







Imgp3218  前回も聞いたが、ペー族の女性が被る髪飾りは、白い紐が風を、飾りつけで花を、上の白い部分で雪を、髪飾りの曲線が月を表していて、「風・花・雪・月」とのことである。





Imgp3273  喜州を離れ、大理に面した湖・洱海のさらに上流にある西湖という湖を目指すことにした。西湖の観光チケットは食事付きなのだが、川魚と野菜が出てきた。この魚は「草魚」(艸魚?)というらしいが、味付けがタイカレーのようであり、煮汁をご飯にかけるとタイカレーの味そのものであった。


Imgp3282  食事を済ませ、西湖へボートで漕ぎ出す。







Imgp3289  西湖の中には島があり、その島と湖岸は橋で結ばれている。その狭い橋をボートがくぐる。






Imgp3296 Imgp3311  西湖の中にある島には少なからずペー族の人が住んでいて、やはり白壁の家がある。湖では魚や貝を獲る人がボートで漁をしたいたが、この島では農業が営まれており、12月とは思えないほど青々とした作物が育っていた。
Imgp3292  農作業が終わったところだろうか、橋につながる土手を歩く人たち。






Imgp3336  西湖を後にし、大理古城方面に戻る途中の風景。やはり12月とは思えない一面の菜の花である。






Imgp3348  この日は月曜日、途中にある沙坪という街で週に1回の野外市場が開かれるとかで足を運んでみた。






Imgp3358 Imgp3369  生活必需品といえばやはり食糧。大理や近郊で採れた野菜、さらに豆腐を干した豆腐干などが売られていた。じゃがいもの値段を聞いたら1斤が6角とのこと、かなりお買い得である。
 そのほかには、上写真のような香辛料や乾物を売る人たちも多かった。

Imgp3353 Imgp3362  食糧のみならずその他の生活用品も売られている。衣類や靴は昔からあるのだろうが、ポリ容器やバケツなどを売っているのは今日のマーケットならではといえよう。

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2009年1月2日星期五

2008年12月・大理旅行(1)-大理古城-

 年末の休みを利用して、中国・大理に旅行に行ってきた。
Imgp3075  大理には3年前に行っており、また1993年にも行っている。日本からだと往復それぞれに1日あるいはそれ以上かかるのでそう簡単に行くことができる場所ではないのだが、美しい眺めが気に入っている。
 写真は大理でもう一度見たかった景色、池に映る三塔寺。三塔寺から少し離れた、三塔倒影公園にて。昔は普通の公園だったのだが、最近は三塔寺と一体の観光ポイントとなり、入るには三塔寺と共通の入場券が必要である。









Imgp3181  大理の旧市街、大理古城を囲む城壁の前にて。中国の人たちは観光地でカメラを向けられるとポーズをとったり「モデル立ち」をしたりする人が多い。





Imgp3069  旧市街のメインストリートである復興路。







Imgp3195  旧市街では主な通りに水路が設けられたりと、街並みに手入れをして景観の整備が図られている。





Imgp3208  交差点にて。







Imgp3200  夕暮れ時になると、食堂のかきいれ時である。店頭にその日取れた野菜やきのこを並べ、選んで調理してもらう。






P1000175  12月だというのに、復興路から1本外れた通りでは花を見ることができる。夜こそ寒いが昼間は暖かく、常春の地と言える。






P1000174  夕方、学校帰りの生徒が屋台で小吃を選んでいる。








P1000164 P1000165  こちらは米线(米線、米で作った麺)の店にて。多くの生徒がこうした麺なり炒飯なりを食べていく。もうすぐ日が沈むのだが、学校帰りにしてはしっかり食べている。家では食べないのか、あるいは遠くから学校に通っていて寄宿舎暮らしなのか。

P1000232  朝の旧市街、メインストリートから離れたところにて蒼山を望む。ここ大理は標高が1900メートルあまりあるにもかかわらず温暖なのだが、前日山には雲がかかっていたせいか蒼山の上にはうっすらと雪がかかっている。白壁の家と緑の山、そして雪のコントラストがいい風景となっている。
 郊外の様子は、また次に。

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2008年12月15日星期一

『中国・庶民の改革開放30年 第3回 失意からの出発~上海~』

 NHKで放映された『BS特集 中国・庶民の改革開放30年 第3回 失意からの出発~上海~』を見た。1978年に鄧小平体制下で「改革・開放」が唱えられてから今年で30年、各地の庶民にとっての「改革・開放」の一面を捉えたシリーズである。『中国・庶民の改革開放30年』シリーズは過去の番組で取材した人たちのその後を追う形で展開され、この第3回は1993年に『はるばると世界旅 上海・横丁物語』で上海の社区を取材したときに出会った人たちのその後の姿を追った番組である。取り上げられた社区は「呉淞路里弄」と言っていたから、上海北部の話であろう。
 番組では1993年に取材した3人の男性にハイライトを当てている。一人は当時結婚式を挙げたばかりで、その後勤めていた国営企業を辞めてはるさめ工場を開くもトラブルから閉じざるを得なくなり今はかつて住んでいた社区の近くで麺店を営んでいる。もう1人は当時はバス会社に勤めながら弟が経営する精肉店を手伝っていたが、その後自らも念願の自営の精肉店を営むも社区の取り壊しで閉店を余儀なくされ、今度は再開発で取り壊す場所での立ち退きを説得する会社に転じていた。さらにもう1人は早くから商品ブローカーをやって儲け、1993年当時は社区で飲食店を経営していたが、その後ギャンブルなどで身を持ち崩し今は近所の人の援助で暮らしている、といった具合であった。
 「改革・開放」の影響はまず華南で見られ、上海ではこの流れは少し遅れてやってきた。1993年当時は上海にも改革・開放の影響が行き渡り、チャンスを求める人が新たなことを始めようという頃だだったのだろう。この3人もそんな時代の中でチャンスを求め、今に至るという感じなのだろう。

Img_1537 Img_1539  登場した3人のうち2人は、社区の取り壊しが人生のターゲットになっている。精肉店を営んでいた彼は社区の取り壊しで精肉店を閉じざるを得なくなり、商品ブローカーから転じて飲食店を営んでいた彼は立ち退き時の補償金をギャンブルに注ぎ込んでしまい人生が変わってしまったといえる。
 番組とは関係ないが、写真は復興路で見た取り壊された住宅群。上海の街のあちこちでビルやマンション建設や再開発のために古い家が壊されるのを見た。この番組のように、再開発やそれに伴う立ち退き・取り壊しに巻き込まれてしまった人はそれで人生が変わってしまうのである。
 また取り壊しではなくても、かつて拙ブログで紹介した餃子屋のように上海の街の変化のために商売を続けられなくなることもある。

 この番組は「BS特集」なのだが、私の部屋では衛星放送を見ることはできない。実はひかりTVのサービスの1つである「NHKオンデマンド」というサービスを利用して視聴した。NHKで放送した番組、過去の番組のうちいくつかをインターネット経由で配信してくれるサービスである。
 ひかりTVに加入していなくても、ブロードバンド環境があればPCで見ることができる。ただ残念ながら、国外からの視聴は「提供先を日本国内に限ることを条件に番組の権利者からの許諾を得ている」とかで(よくある質問より)不可のようである。

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2008年12月13日星期六

2009年・中国の祝日

 拙ブログでも何回か触れたが、中国の祝日は旧暦や二十四節気が基準になるものがあるので毎年日付が変わる。来年(2009年)の祝日がこのほど決まったとのことで、人民網日本語版による記事はこちらだが、要約すると次の通り。

元旦:1月1日(木)~3日(土)。但し4日(日)は平日扱い。
春節:1月25日(日)~31日(土)。但し1月24日(土)と2月1日(日)は平日扱い。
清明節:4月4日(土)~6日(月)。
労働節:5月1日(金)~3日(日)
端午説:5月28日(木)~30日(土)。但し31日(日)は平日扱い。
国慶節・中秋節:10月1日(木)~8日(木)。但し9月27日(日)と10月10日(土)は平日扱い。

 連休にするために前後の土日を召し上げて平日扱いにするのだが、今回は連続した土日を召し上げるということがないので最長でも6連投である。2005年の春節前は9連投だったのでしんどかったが、今回はそうした極端な調整はない。
 それから、2009年は中秋節が10月3日となり国慶節の7連休と重なるため、国慶節連休が1日長くなって8連休となる。
 2009年は日本も敬老の日と秋分の日の並びのアヤで、土曜日休めれば5連休となるところがある。

 それにしても人民網日本語版の記事、「休祝日の間の旅行・交通運輸・生産経営などの手配を各地区と各部門が早めにできるようにすることを目的として」とのことだが、今回の祝日の発表は12月10日とのことで、「手配を早めにできるようにする」という役割は果たせていないと思うのだが…とりわけ元旦の3連休は残り1ヶ月切ったところでの発表であり、毎年のことながら中国在住の方々は年末の予定が公私ともにぎりぎりまで決まらずしんどいのでは、と思う。

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2008年12月12日星期五

台湾ビール

 台湾ビールが大陸に本格進出するとのこと。ロイター記事から。

台湾の人気ビール、来年から中国でも販売へ

2008年 12月 10日 17:21 JST
[台北 10日 ロイター] 台湾で人気のビール「台湾ビール」が、来年から中国で販売されることになった。製造元の台湾タバコ・酒類専売局が10日、明らかにした。
 長年にわたって緊張状態にあった中台関係だが、中国に友好的な馬英九総統が5月に就任して以来、特に経済面で関係改善が進んでいる。
 同局のビール部門によると、中国での販売は来年2月に開始する予定で、26億台湾ドル(約72億円)の売り上げを見込んでいるという。
 台湾ビールはこれまでも、香港を通じて中国でわずかながら流通していたが、同局では販売を機に中国人の味覚に合わせた商品研究も行うことにしている。

 「中国に友好的な馬英九総統が5月に就任して以来、特に経済面で関係改善」と台湾ビールとの関係はさておき、台湾の気候にあわせてか台湾ビールはアルコール度数が日本のビールと略同じながらのどごし重視の「軽い」味のビールだと思う。他方大陸のビールはもともとアルコール度数が低い(3度程度)やはり「のどこし重視」のものが店頭によく並んでいるし、やはり夏にかなりの暑さになるところではそのままいけるのでは、と思う。
 もっとも、宴席など用=客単価の高いところで飲まれるには「小瓶の青島ビール」などに対抗すべく「中国人の味覚に合わせた商品研究」が必要なのかもしれない。あとは「台湾ブランド」で大陸企業との差別化を図れるか、というところだと思う。

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2008年12月6日星期六

上海往事-長楽路を歩く(下)

 前回の続き(2007年5月撮影)。長楽路を、襄陽路との交差点から東に向かって歩く。

Img_1663  襄陽路との交差点付近は。リアカーや自転車で野菜や日用雑貨などを持ってきて売っている人がたくさんいて、青空市場の様相を呈していた。






Img_1662  リアカーに載せられた、たくさんの日用雑貨。1日でいくつくらい売れるのだろうか。







Img_1668 Img_1669  襄陽路との交差点を過ぎると、欧米人好みの店が多数姿を現す。左はオープンスペースを擁するスペイン料理店、右はギリシャ料理店。



Img_1671  ギリシャ料理店と入り口を共有する、広東料理店。








Img_1673 Img_1674  その先、陝西南路との交差点までは、この付近に産婦人科の医院があるせいかマタニティウェアの店が並んでいる。




Img_1675  「電磁波防止専売店」とあるが。








Img_1679 陝西南路との交差点を過ぎると、衣料品店や小さな食堂が並んでいる。ここには「ラーメンの美味しい焼鳥屋」があって日本人としては心をくすぐられたのだが、台湾菜を出す店もあったりしてここにはよく来たものだ。





Img_1681  そんな商店街の上には、上海の著名ホテルが並ぶ。手前が花園飯店、その奥に見える少し低い建物は錦江飯店、そのまた奥にある円柱のてっぺんを持つ現代的なビルは新錦江飯店。これらホテルについては別途触れたい。





Img_1685  茂名南路との交差点にある、蘭心大戯院。1930年できの建物。







Img_1707 Img_1709  茂名南路との交差点を過ぎてしばらくはちょっと高めのレストランなどが並ぶが、瑞金一路との交差点を過ぎると一気に雰囲気が変わり、小さな商店に囲まれた社区が並ぶ。
 左の写真には「長楽路65弄」を示す地番表示が見える。『甘苦上海』のタイトルに見えた「長楽路52弄」はこのあたりという設定だろうか。

Img_1710  「調髪3元」の看板。かなり安い。私も上海在住時は調髪5元の床屋に行っていたが、それよりも安い。







Img_1711 Img_1719  写真左の社区を過ぎ、南北高架橋を渡るとすぐに長楽路の起点に到着し、ここで長楽路は終わる。
 長楽路の起点は、郊外バスの停留所となっている。
 長楽路、旧フランス租界に共通して見られる老房子や古い社区が見られる。そうした光景が『甘苦上海』の作者である高樹のぶ子の心に感じるものがあったのだろうか。
 他方でそう長くはない距離で、白壁の家なり青空市場なり社区が並ぶなりといろいろな姿を見ることができる。並行して走る淮海路が「現代の商業都市・上海の中に孫文の上海なり民国期の上海なりを探す」であれば、長楽路は「現代の商業都市・上海に、かつての上海を残しつつ根を張って生きている人たちの景色」というところであろうか。

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2008年12月5日星期五

上海往事-長楽路を歩く(上)

 日本経済新聞で連載中の小説『甘苦上海』、第1章には上海・長楽路に因んだタイトルが付けられていた。その長楽路をかつて地番の大きいほうから小さいほうへ、西から東へ歩いたときの写真をぼちぼちとアップ。(2007年5月撮影)

Img_1618  華山路・鎮寧路と交わる四叉路から長楽路が始まる。








Img_1622  確か烏魯木斉路との交差点だったと思う。








Img_1626 Img_1625  烏魯木斉路との交差点を過ぎたあたりにて。白い壁の家の軒先に鮮やかな色の花、という光景は、ここだけ切り取るとスペイン・アンダルシアを彷彿とさせる。



Img_1627 Img_1630  さらに進み、常熟路との交差点。







Img_1640 1930年代に建てられた「劉氏住宅」という名前の老房子。








Img_1642 Img_1646  やはり1930年代に建てられた「杜美新村」という名前の老公寓。




Img_1652  富民路との交差点付近にあるおもちゃ屋のショーウインドー。おもちゃに混じって、何故か日本の甲冑が店頭を飾っている。






Img_1656  長楽路に面して建つ、上海郵電医院の裏側の広場を囲む病院の建物。老房子や老公寓は確かに風情があるのだが、こと病院となるとどんな用途で使われているのか気になる。最新の医療設備が使えるのかとか、患者が通ったり入院していたりするのであれば、もし建物の中が高い天井だったり暗い室内だったりしたら如何なものかとか考えてしまう。



Img_1655  その上海郵電医院を囲む広場の一角に、上海厚誠口控医院という名前の歯科医院がある。この歯科医院の建物は、清末~民国期に生きた潘宗周という人がここに住み、宋~元代の書物を保存していたのだと入り口に説明が書いてあった。
 今は日中合弁の歯科医院になっており、入り口には設立当時の厚木市長の筆による「健康は全ての人に」と書かれた揮毫が飾られている。

Img_1660  上海郵電医院の近く、襄陽路との交差点付近のマンション。1階には「にんにくや」という名前の日本料理店?があったが閉店し、タイ料理店になっていた。回転が早い上海の飲食店のこと、今はどうなっているだろうか。

 写真が多くなったので、続きは後程。


*『甘苦上海』のウェブサイトはこちら。また、小説内に登場した建物に触れた拙ブログの記事はこちら

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2008年11月29日星期六

映画『小さな中国のお針子』

 「中国映画の全貌2008」と題して中国映画69本の上映を新宿の映画館でやっている。過去に上映されたものや過去の「中国映画の全貌」で何度か上映されたものも少なからずあるが、今まで観たことのない映画の中で何か、と思い『小さな中国のお針子』を観に行った。
 文革期を題材にした映画であるが、2002年の作品であり「文革期を振り返る」作品としてはそう古くはない。文革期に四川省の山奥、文字を読める人が殆どいない農村に「再教育」のために下放された二人の青年と彼らが出会った村のお針子の話である。「外の世界を知る」下放青年に影響を受けて心の中の世界を広げていくお針子、そんなお針子が取った人生の選択、時は流れかつての青年がその村が三峡ダム工事で沈もうとしている頃に昔のことを振り返り…、と続いていく。
 実はこの映画、登場人物も俳優も監督も中国の人であり、舞台も中国であるが、原作はフランス語で書かれたフランス製作の映画である。中国映画の中には観終ったあとで「?」となる映画が少なからずあり、フランス映画はあまり見ないがやはり難しい映画があるようだが、この映画はストーリーが明確であり、観た後で心にオリが残ることのないわかりやすい映画であったといえよう。映画ではかつて懸命に生きた場所は川底に沈み、若き日に恋した人に思いを寄せるのだが、我が身を振り返り歩んできた道程はあとで懐かしむことができるようであって欲しいし、昔を懐かしむだけでなくかつで出会った人たちに誇れる歩みを記したいものである。

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2008年11月27日星期四

『甘苦上海』

 この9月末から、日本経済新聞の連載小説が高樹のぶ子著『甘苦上海』になった。と言っても、私は日経新聞は読んでいるが連載小説は普段読んでおらず、この小説に連動したウェブサイトができたとNIKKEI NETに書かれていたのを見て初めてこの小説の存在を知った。
 過去の分から読み返してみた。上海でエステサロンを経営する51歳の日本人女性と、新聞記者の職を辞して上海で大学院生をやっている39歳の男性との奇妙ともいえる逢瀬がここまでは描かれている。「逢瀬」と書くと、日経新聞の連載小説では過去の話題作というか問題作、『失楽園』や『愛の流刑地』を思い浮かべるが、それらほどのしつこい表現はなくむしろ「その場面」はあっさり過ぎる程に軽く描かれ、ここまでは心理的駆け引きに重きを置いて描かれていると言えよう。

 この小説、第1章のタイトルが「長楽路五二弄三号楼」、第1話で主人公・紅子が運転手に対して発する台詞が「新楽路まで行かないのよ、長楽路で右に折れてね」である。このほかにも上海の地名や建物の名前が小説に現れそして重要なシーンで登場し、かつて上海に住んでいた者としては当時の光景が目に浮かぶし地名が出たりすると懐かしくも思える。旧フランス租界がよく出てくるが、やはり小説の題材として相応しいのだろうか。
 かつて拙ブログで上海を舞台にしたテレビドラマに見られたかの地の光景をアップしたことがあるが(1)(2)、小説では映像が直接出てこない。テレビドラマと違いその光景を見ることはできないが、むしろ映像がない分だけ上海への想像が掻き立てられることもあるだろう。
 第1話を読むと、延安中路から陝西南路に入り、そこから長楽路へ入るようだ。「長楽路で右に折れてね」と指示すると、番地が大きいほうに向かい「五二弄」には着かないようなな気がするのですが、長楽路の番地の付け方ってそうでしたっけ?まぁ小説なので突っ込むのは野暮なのかもしれませんが…

Img_2365  第30話に、紅子がその男性・京に東湖路にある「エル・ウイリー」で食事をしないかと誘われる場面がある。この店は実在するようだ(店のウェブサイト)が、私がいた頃は別の店が古い洋館を改装してオープンしたばかりであった。店の入れ替わりが激しいようだ。




 それから写真はないが、新楽路x襄陽路にある「首席公館酒店」というホテルが登場する。やはり洋館を改装したホテルであるが、宿泊料を聞いたところとても高くて「出張者の宿泊先」には使えない値段だった記憶があるし、小説のようにラブホテル代わりに使える値段ではなかったと思う。
 「エル・ウイリー」の近くで私は「ひとり火鍋」を食していたし、首席公館酒店から歩いて1分の新楽路では「冷面」や一皿2元の餃子を食していた。「ひとり火鍋」もかの地にしてはいいお値段だと思うが、何れにせよこの小説の登場人物とは住む世界が違うのだろう。

 今後も見どころ(突っ込みどころ?)があればぼちぼちと。

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2008年11月13日星期四

『世界の車窓から DVDブック No.24 中国ベトナム』

 近所の本屋で見かけたのでついつい購入。出版元による紹介はこちら
 5分間のミニ番組『世界の車窓から』をまとめて1枚のDVDに収めている。シリーズの中で中国を対象にしたものはこの巻だけのようだ。上海から張家界を経て昆明へ、そこから中国では珍しい狭軌鉄道に乗ってベトナムとの国境へ行き、さらに国境を越えてハノイ・ホーチミンへと乗り継いだ中での車内の様子や車窓の様子が収められている。拙ブログでもかつて紹介した「和諧号」に代表されるように中国の鉄道も大きく様変わりしているが、このDVDではまだまだ多数を占める客車列車からの車窓や車内を見ることができる。紹介される列車は決して豪華列車というわけではなく、中国だと硬座車、ベトナムだと板張りの座席の客車というように庶民の足、あるいは贅沢をせずに遠くへ行こうという人が乗っている車内からの眺めである。上海在住時は、出張でも(さすがに寝台列車でということは少なかったが)こうした客車に乗って目的地へ向かうことが多かった。昆明からベトナムとの国境を目指す河口という街を目指す狭軌列車が走る、常春の地と言われる明るい車窓が印象深い。
 こうした車窓やその間に紹介される街の小道を目指して気の向くままに旅をするということは難しいのだが、住んでいる街を離れて旅をするときには目に入る眺めを味わい、何かを感じることができれば良いと思う。

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2008年11月1日星期六

ドイツの中国人

 先週末、都内の家電量販店に行ったのだが、店の客の中に中国人や台湾人が多いようで、店内のあちこちで中国語が聞こえてきた。デジタルカメラ売り場でディスプレイを前にして「どうする?買う?」といった会話が繰り返されていた。
 先月のドイツ旅行でも、各地で中国人がとても多いのが気になった。東洋系の顔立ちでどこの人かと思っていると、いつも中国語の会話が聞こえてくるのだった。ドイツで東洋系の顔立ちだと、日本で他の東洋系の人をみるよりも目立つ。
 そして、中国人が観光シーンの様々な場面で登場してくる。中国人を目にするのは、世界のどこにでもある中国料理店だけではない。土産物屋の売り子にも中国人が多かったし、ハイデルベルクでは博物館の切符売り場に中国人がいた。話を聞いてみると上海出身で、私が住んでいたところの近くに住んでいたと言っていた。

 以下、放送大学の教材でもある、梶田孝道著『国際社会学』(放送大学教育振興会、1995)を参考にした。ドイツでは「ドイツ市民」であるためには血統主義や文化的・民族的・宗教的な価値観を一にすることが重んじられる傾向があり(この市民観は「フォルク」と呼ばれ、政治的理念の共有を重んじるフランスの「ナシオン」と対比される)、外国人労働者は「ガストアルバイター」、客員労働者と捉えられる傾向がある。ドイツの状態とフランスの状態がそれぞれ「フォルクのみ」「ナシオンのみ」というわけではなかろうが、ドイツでは前者が優勢とされている。

 ドイツでは各地の中央駅の駅前に中国人・トルコ人といった移民向けの店や移民通りと呼べる通りがあったが、「フォルク」の市民観がある中で「自分らしい生活」を維持しようとしているのを具現しているかのように見えた。

Imgp1940  ケルン駅前にて、「大可以」という名前のレストラン。







Imgp2952  フランクフルト中央駅から市電沿いに伸びる通りの朝。トルコ系や中国系と思しき店が並んでいる。昼や夜には賑わうのだろう。







Img_4675  ハイデルベルク、ネッカー川河岸にある中国料理店で食べた「担担麺」。具の挽き肉や汁が甘辛い味だった。







Imgp2468  ドイツではないが、フランス・ストラスブールにて。中国料理の惣菜が店頭に並ぶ。「ナシオン」の中での中国惣菜。

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2008年10月30日星期四

『赤壁』@中華航空機内

 東京国際映画祭の特別招待作品である『レッドクリフ Part Ⅰ』(音が出るので注意、さらにウェブサイト上でBGMをOFFにしても、ページを移る度に音楽が鳴ります)、今週末から映画館で公開される。ここ8年、そのうち日本にいた5年は土日といえども東京国際映画祭に行くことが叶わない環境にあるのだが、この映画は先月旅行した際に中華航空の機内で観た。
 日台便だと、観終わるかどうか微妙な長さですね。エコノミークラスにも各座席に個人で操作できるテレビがありそれで観たのだが、飛行時間を考えて早回しする必要があるかもしれない。

 『三国志』における「赤壁の戦い」を話の中心に据えた映画である。劉備軍が曹操軍に苦戦を強いられる戦い-劉備夫人が趙雲に幼子の身を託し自らは井戸に身を投げるシーンがあったので、これは「長坂の戦い」でしょう-から始まり、「赤壁の戦い」の途中でこの映画は終わる。赤壁の戦いの前哨戦で劉備軍が勝利し、曹操が水軍を率いて乗り込んでいきそれを迎え撃とうかというところで映画が終わるので、『暴れん坊将軍』・『大岡越前』・『遠山の金さん』・『水戸黄門』のように「これにて一件落着」まで見届けて終わる一話完結の話に慣れている身としては拍子抜けである。続きはPart Ⅱで、ということなのだろうが、何かつかえたものが残る終わり方である。
 映画の見どころは、梁朝偉(トニー・レオン)扮する呉の策士・周瑜と金城武扮する蜀の策士・諸葛亮孔明が互いを見抜き見極めるやり取り、そして戦闘シーン、というところであろうか。前者のみならず人物描写については、趙微(ヴィッキー・チャオ)扮する孫尚香(『三国志』では後に劉備の妻・孫夫人になる)も個性豊かな人物として描かれており、人物描写が面白く描かれていると思った。他方周瑜と孔明の関係は、『歴史スペクタクル』を売りにする映画では小さく埋もれてしまう感があり、アピールの強いエピソードがないと物語の中心とも言える二人の関係・駆け引きが埋もれてしまう気がした。この辺は「Part Ⅱに請う御期待」なのだろうか。この2人が主役なので、君主であり『三国志』ではキーパーソンの劉備や孫権がこの映画では扱いが浅くなっているのはそれはそれでいいのではと思う。
 もう1つの見どころと言える、諸葛亮・周瑜の作戦の見せ所である後半の戦闘シーンは、「作戦の妙」を感じることができて面白い場面だと思った。他方、その映像は日本の映画に比べるとかなり「きつい」感じで、血の飛び方や刀・矢の刺さり方が「きつい」映像であった。「血生臭い」といえるだろう。

 この映画には、林志玲が周瑜の妻・小喬役で登場する。『歴史スペクタクル』の中では小喬の役割自体も小さいものになってしまったが、ベッドシーン…強引に林志玲の見せ場を作らせた気がする。オフィシャルサイトの「キャラクター&マップ」のページ(何れも音がするので注意)では戦いの主要人物やその相関図を差し置いて「曹操に奪われた小喬=林志玲を周瑜=梁朝偉と諸葛亮=金城武が奪い返さんとする」図が前面に描かれていたが、これがPart Ⅱの主要なストーリーなのだろうか。

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2008年9月5日星期五

北京の乗り物-オートバイ-

Img_0108 Img_0109  北京でよく見かけた、覆いつきのオートバイ。よく見ると後輪が2つある三輪オートバイである。
 人が乗るには狭いので荷物運びが主な用途だろうが、どのオートバイも外観はあまり気にしていないようで、「使い込まれた」という雰囲気を醸し出していた。この覆いつき三輪オートバイ、何と呼ばれているのだろうか。

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2008年9月3日星期三

北京の乗り物-タクシー-

Imgp1716 Imgp1717 北京の街で見かけたタクシー。多くのタクシーが写真のように2色に塗り分けられており、違うタクシー会社が何種類かの塗りわけに集約されているように見受けられた。車種はフォルクスワーゲンのサンタナのほかにヒュンダイのものも見かけたし、北京空港ではクラシックカーのタクシー(塗りわけはやはり右写真のものであった)を見かけた。
 上海のタクシー事情については書きそびれた。殆どのタクシーの車種は上海大衆(フォルクスワーゲン)のサンタナで、大手のタクシー会社は独自の塗装で見分けることができた。錦江(白)、巴士(緑)、強生(黄色)、大衆(メタリックな水色、というのだろうか)、海博(青)あたりがメジャーなタクシー会社で、あずき色のタクシーは要注意だったり清潔感が今ひとつだったり、と言われつつ実は会社を問わず運転手の質如何だったりというのを覚えている。今回の滞在中は地下鉄やバスで用が足りたのでタクシーには乗らなかったのだが、北京のタクシーは現地ではどんな評判なのだろうか。

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