街並み

2009年2月11日星期三

池袋北口・西口界隈

 池袋駅北口付近には中国食材店や中国料理店が集まっており、またそうした場所に多くの中国人が集まっている。この界隈を「池袋チャイナタウン」と呼ぶ人もいる。筑波大学・山下清海教授のウェブサイトの中に、この界隈を紹介したページがありその中でこの名を冠している。
 先月のことであるが、そんな池袋北口界隈を、そして西口界隈を歩いてみた。
20090110051  池袋駅北口を出てすぐ、線路沿いに歩いて最初の交差点を折れると「陽光城」という名前の中国食材店がある。







20090110052  その向かいのビルには、「知音」という看板を掲げたやはり中国食材店がある。品揃えはいろいろあり、スーパーマーケットといった感じである。店の中では中国語がデフォルトで、日本語が通じないときもある。店内には食堂もある。





20090110056  先述の交差点を斜めに入ると、「富麗華」と書いてある看板が見える。1階・2階は楽楽屋という居酒屋や中国料理店なのだが、3階はカラオケボックスになっている。このカラオケボックス、中国語の歌をふんだんに収めたシステムが入っており、中国や台湾のカラオケボックス同様に中国語圏の歌を歌える。日本の普通のカラオケ(昨年4月に行ったときにはUGAだった)も入っているので日本語と中国語のカラオケを同時に楽しめ、中国語のわからない人でも楽しむことができよう。
 このカラオケボックスは3階にあるのだが、2階の料理店の厨房を通った先に3階に向かう階段がある。初めて入る時にはちょっと驚くというか入り難いかもしれない。店員は中国の人だが、精算したときのレシートは普通の(日本語の)明細だった。
20090110058  ここからクランク状に北に向かってあるくと、へいわ通りという名前の通りがある。







20090110059 20090110062  この通りに、中国料理店が数多く並んでいる。夜になると店内には中国語の会話が飛び交っているが、休日の昼間ということもシャッターを閉じている店が多かった。
 池袋に限らず、「中華料理」ではなく中国料理を掲げる店には、「東北菜」、中国東北部の料理を看板に掲げる店が多いような気がする。
 例えば水煮魚を売りにする、あるいは水煮魚は川魚ベースだから厳しいにしても唐辛子だけの平板な辛さではない、山椒などもきっちり交えた四川菜の廉価な店があってもいいのに。

20090110063  池袋には家電量販店もあるのだが、小さいビルの一角には小さなパソコンショップがあり、中国語の宣伝を掲げるとともに在日中国人向けの新聞を店頭に置いている。






20090110065  北口界隈から、池袋西口界隈へ。池袋駅から行くと駅前の大通りを直進し、五差路を右に曲がる。北口同様に中国料理店の看板が見えるが、このあたりには韓国食材店の看板もたまに見える。





20090110066  そんな路地に、「線條 手打餃子専門店」の看板を見かけた。看板の上には「本場台湾」の文字が見える。この界隈にある中国系の店とは違うようだ。
 いろいろな餃子の写真やその紹介・メニューが店頭を飾っている。




20090110067  店内は2人掛けのテーブルが3つという小さなものである。ここで店の人に勧められるままに「如意餃子」を頼んでみた。木の実が入った餃子など中の餡は6種それぞれ違い、皮にも野菜が練りこんであるものがあるとかで、違う味が楽しめる。餡の味が、台湾で食べる「何か」を思い起こさせた。
 店番をしていた方はこの店が何冊かの雑誌で紹介されたことをしきりに紹介してくれたが、確かに普段外で食べる餃子にはあまりない味で、美味しく戴いた。と共に、この店番の方の話から、池袋の「中国系」とは違い、オーナーが台湾出身で台湾の味をアレンジしようとした店であるということを聞かせてくれた。
 今回池袋を歩いていちばんの収穫は、この餃子店であった。

 この池袋北口・西口界隈で「池袋チャイナタウン」を大々的に掲げて売り出そうという提案が、この地を拠点にする中国の人を中心に出されている。@niftyに掲載された内外タイムスの記事はこちら。横浜や神戸の中華街とは違う、最近中国から来た人たちによるチャイナタウン、ということであろうか。ここだけでなくても中国語がよく耳に入る池袋であるが、中国を感じさせる店が密集しているというわけではなく、街の中に多数点在している、という感じである。
 私が学生だった頃(くどいようだがH送大学の、ではない)から既に池袋は中国の人が他所よりも多く行き来する街で、前述のようだったか定かではないが中国人が営む飲食店がちらほらとあったと記憶している。

 例えば、上海の古北エリアは日本人が多く住み日本人がよく出入りする街として知られ、また龍柏新村あたりは韓国料理店が並び韓国人が多く住んでいる。しかしながらこれらの街は日本人や韓国人だけで担われているのではなく、もとから住んでいた、あるいはこれらに職を求める中国人によって街が成り立っているのだと思う。「古北には日本人が多く、日本食材店がたくさんある」「龍柏には韓国人向けのマンションや店が多い」という話は聴くしそれはそれで現状なのだが、「古北日本街」「龍柏韓国街」という言われ方をされるとそれはどうか、と思われるだろうし言うのは如何かとも思う。
 「池袋チャイナタウン」構想はもとから住んだり商いを営んでいる人なしには成り立たないだろうし、それらを無視した構想は歓迎されないのではないだろうか。古北の日本人や龍柏の韓国人と逆の立場にあってどう街と関わっていくか、ということだと思う。

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2008年12月6日星期六

上海往事-長楽路を歩く(下)

 前回の続き(2007年5月撮影)。長楽路を、襄陽路との交差点から東に向かって歩く。

Img_1663  襄陽路との交差点付近は。リアカーや自転車で野菜や日用雑貨などを持ってきて売っている人がたくさんいて、青空市場の様相を呈していた。






Img_1662  リアカーに載せられた、たくさんの日用雑貨。1日でいくつくらい売れるのだろうか。







Img_1668 Img_1669  襄陽路との交差点を過ぎると、欧米人好みの店が多数姿を現す。左はオープンスペースを擁するスペイン料理店、右はギリシャ料理店。



Img_1671  ギリシャ料理店と入り口を共有する、広東料理店。








Img_1673 Img_1674  その先、陝西南路との交差点までは、この付近に産婦人科の医院があるせいかマタニティウェアの店が並んでいる。




Img_1675  「電磁波防止専売店」とあるが。








Img_1679 陝西南路との交差点を過ぎると、衣料品店や小さな食堂が並んでいる。ここには「ラーメンの美味しい焼鳥屋」があって日本人としては心をくすぐられたのだが、台湾菜を出す店もあったりしてここにはよく来たものだ。





Img_1681  そんな商店街の上には、上海の著名ホテルが並ぶ。手前が花園飯店、その奥に見える少し低い建物は錦江飯店、そのまた奥にある円柱のてっぺんを持つ現代的なビルは新錦江飯店。これらホテルについては別途触れたい。





Img_1685  茂名南路との交差点にある、蘭心大戯院。1930年できの建物。







Img_1707 Img_1709  茂名南路との交差点を過ぎてしばらくはちょっと高めのレストランなどが並ぶが、瑞金一路との交差点を過ぎると一気に雰囲気が変わり、小さな商店に囲まれた社区が並ぶ。
 左の写真には「長楽路65弄」を示す地番表示が見える。『甘苦上海』のタイトルに見えた「長楽路52弄」はこのあたりという設定だろうか。

Img_1710  「調髪3元」の看板。かなり安い。私も上海在住時は調髪5元の床屋に行っていたが、それよりも安い。







Img_1711 Img_1719  写真左の社区を過ぎ、南北高架橋を渡るとすぐに長楽路の起点に到着し、ここで長楽路は終わる。
 長楽路の起点は、郊外バスの停留所となっている。
 長楽路、旧フランス租界に共通して見られる老房子や古い社区が見られる。そうした光景が『甘苦上海』の作者である高樹のぶ子の心に感じるものがあったのだろうか。
 他方でそう長くはない距離で、白壁の家なり青空市場なり社区が並ぶなりといろいろな姿を見ることができる。並行して走る淮海路が「現代の商業都市・上海の中に孫文の上海なり民国期の上海なりを探す」であれば、長楽路は「現代の商業都市・上海に、かつての上海を残しつつ根を張って生きている人たちの景色」というところであろうか。

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2008年12月5日星期五

上海往事-長楽路を歩く(上)

 日本経済新聞で連載中の小説『甘苦上海』、第1章には上海・長楽路に因んだタイトルが付けられていた。その長楽路をかつて地番の大きいほうから小さいほうへ、西から東へ歩いたときの写真をぼちぼちとアップ。(2007年5月撮影)

Img_1618  華山路・鎮寧路と交わる四叉路から長楽路が始まる。








Img_1622  確か烏魯木斉路との交差点だったと思う。








Img_1626 Img_1625  烏魯木斉路との交差点を過ぎたあたりにて。白い壁の家の軒先に鮮やかな色の花、という光景は、ここだけ切り取るとスペイン・アンダルシアを彷彿とさせる。



Img_1627 Img_1630  さらに進み、常熟路との交差点。







Img_1640 1930年代に建てられた「劉氏住宅」という名前の老房子。








Img_1642 Img_1646  やはり1930年代に建てられた「杜美新村」という名前の老公寓。




Img_1652  富民路との交差点付近にあるおもちゃ屋のショーウインドー。おもちゃに混じって、何故か日本の甲冑が店頭を飾っている。






Img_1656  長楽路に面して建つ、上海郵電医院の裏側の広場を囲む病院の建物。老房子や老公寓は確かに風情があるのだが、こと病院となるとどんな用途で使われているのか気になる。最新の医療設備が使えるのかとか、患者が通ったり入院していたりするのであれば、もし建物の中が高い天井だったり暗い室内だったりしたら如何なものかとか考えてしまう。



Img_1655  その上海郵電医院を囲む広場の一角に、上海厚誠口控医院という名前の歯科医院がある。この歯科医院の建物は、清末~民国期に生きた潘宗周という人がここに住み、宋~元代の書物を保存していたのだと入り口に説明が書いてあった。
 今は日中合弁の歯科医院になっており、入り口には設立当時の厚木市長の筆による「健康は全ての人に」と書かれた揮毫が飾られている。

Img_1660  上海郵電医院の近く、襄陽路との交差点付近のマンション。1階には「にんにくや」という名前の日本料理店?があったが閉店し、タイ料理店になっていた。回転が早い上海の飲食店のこと、今はどうなっているだろうか。

 写真が多くなったので、続きは後程。


*『甘苦上海』のウェブサイトはこちら。また、小説内に登場した建物に触れた拙ブログの記事はこちら

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2006年12月2日星期六

武夷路のレリーフ

 2週間ぶりくらいに満天の青空を見ることができた、今日の上海市内。
 以前新華路の壁面にレリーフがたくさんあることを紹介したが、延安西路と中山公園を結ぶ武夷路でも、壁面にレリーフを見ることができる。

Img_3054 延安西路との交差点付近にて。この辺りでは以前工事中に文革期のスローガンが壁の下から見えていたのだが、またレリーフで覆われてしまったようだ。


Img_3041 Img_3044

 手前の歩道が工事中なので些か殺風景ではあるが、西欧の街並みを表現したレリーフが並ぶ。


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 傘をさした男性の足元にいる犬まで細かく表現しているし、手前の電灯までもがわざわざ作られている。





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 左側の女性が、本当に扉の中に入っていきそうである。



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 レリーフと建物の組み合わせは、例えばこのような感じである。



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 少し歩いて、比利時=ベルギー領事館付近の壁面。



Img_3058Img_3059

 こちらは定西路との交差点付近にて。



Img_3060  その拡大写真。上の写真で全体を見るとやはり西欧の街並みを模したもののようであるが、壁の一部分が高くなっているのがまた違う雰囲気を醸し出しており、中東のモスクのようにも見える。

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2006年11月10日星期五

思南路を歩く(2)-国共内戦-

 前回の続き。孫中山故居をあとにして、再び思南路を南へ向かって歩く。
Img_2900 思南路x復興中路の交差点から少し北側にある建物。洗濯物が生活感を醸し出す。




Img_2903Img_2904 思南路x復興中路の交差点に立つ建物。「優秀歴史建築」のプレートが埋め込まれているが今でも現役で、玄関には12世帯分の郵便受けが並んでいる。

Img_2906Img_2908 その向かいにも、やはり同時代からあるであろう建物が並ぶ。



Img_2909Img_2910 少し歩くと、「周公館」こと中国共産党代表団駐滬弁事所記念館が見えてくる。ここは国共内戦期の1946年~47年に中国共産党の駐上海代表処として使われた建物で、建物の中では当時の周恩来や董必武の書斎件寝室、そして党員の寝室や作業室が再現されている。建物自体は1920年代できとのことである。周恩来のかつての活動拠点として、「上海市文物保護単位」かつ「愛国教育基地」に指定されている。
Img_2915 かつての番地表記。現在の上海での番地表記のプレートは緑色で、地番も現在は「思南路71号」に変わっている。



Img_2911 周公館の庭。




Img_2913 庭に立つ周恩来の銅像。







Img_2917Img_2918 周公館の向かいには、かつての上海婦科病院が建っている。この上海婦科病院、当時は国民党の諜報機関が置かれていたとされており、周公館の2階には上海婦科医院を見張る見張り場があった。当時はまさにこの思南路を隔てて国民党と共産党が相対峙していたわけだ。もっとも、今では国民党の党大会に共産党から祝電が来たり国民党主席の連戦が共産党要人と会談したり、主席を退いて名誉主席になってからも訪中するくらいだからなぁ・・・思南路を隔てた国共対立は歴史のひとコマになるのだろうか。
 この旧上海婦科医院も、今は普通の民家。入り口の上にある「70」の数字は今日の番地表記で、かつては「思南路98号」であった。
Img_2920 周公館を過ぎたあたりから租界時代を彷彿とさせる建物は影を潜め、現代的な建物が目に付くようになる。写真は上海交通大学医学院。交通大学なのに医学部とは、と思うが、かつての上海第二医科大学が交通大学と一緒になったものである。

Img_2924Img_2926 建国南路との交差点にある、便利店=コンビニが入った建物。屋根のすぐ下にある「1927」のレリーフは、当時からの存在をアピールするものなのだろうか。


Img_2929 このあとすぐ泰康路とのT字路にぶつかり、ここで思南路は終わり。ちょうどT字路のところに麺のチェーン店「呉越人家」があったのでここで麺を食した。折角歩いたのにこれではダメですね。


Img_2934 このT字路を左に曲がるとすぐに徐家匯路に行き当たり、南北高架路(重慶南路)との交差点が見える。高層ビルやマンションが目に入り、租界の雰囲気から一気に現代の上海に引き戻される。


Img_2933 徐家匯路と泰康路の交差点の近く、集合住宅の入り口に朝鮮戦争時の「抗美援朝」を称えた記念碑が建っている。なぜここにあるのかはわからないが、中朝関係ももはやこの碑のようではあるまい。





Img_2919 高層ビルが林立する上海の中心部でもこのように低層建築がならぶ界隈があちこちに見られる。その中でも思南路はかつてのフランス租界の住宅の雰囲気を今に伝える静かな通りである。
 しかしながら上海交通大学医学院の近くでは、このように取り壊された建物の姿も見かけた。これがこの一角だけであり、思南路がこの雰囲気を保ち続けてくれることを願いたい。

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思南路を歩く(1)

 この前孫中山故居へ行ってきたが、思南路を北から南まで歩いたのでその様子もぼちぼちと。
Img_2859 淮海中路から別れ、思南路に入る。







Img_2863 思南路に入ってすぐ、南昌路との交差点まで続く商店街。




Img_2865Img_2872 南昌路との交差点にある民家。孫中山故居が目当てだったので通りにあるほかの建物にはあまり期待していなかったのだが、歩いてみるとこうした雰囲気の良い建物が目に入ってきてなかなか雰囲気のよさそうな通りである。
Img_2873Img_2874 思南路x南昌路~思南路x香山路にかけて並ぶ建物。こうした家に住んでみたいが、手入れはきっと大変なのだろう。防寒などは大丈夫なのだろうか。


Img_2875 孫中山故居の隣は中学校。この日は何かの試験会場になっていたようだ。



Img_2876 孫中山故居。訪問記はこちら




Img_2895Img_2896Img_2897 孫中山故居の向かいに白い建物がある。ロシア文字のようなものが見え、扉も木製の重厚な趣きなので何かと思ったが、スペイン料理店のようである。一度試してみたい。
 外灘が清末~民国期の商業街を今に伝えるのであれば、ここ思南路は孫中山故居を始めとして旧フランス租界の住まいの雰囲気を今に伝えている、と言えよう。

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2006年11月4日星期六

孫中山故居-こちらが本家?-

 2週間前に淮海路を歩いたときに孫文がかつて住んだとされる淮海中路小学校を見つけたのだが、上海には「孫中山故居」と呼ばれる場所が別にある。今日はそこに行ってきた。
Img_2860 淮海中路x思南路にある、孫中山故居への案内。




Img_2876 写真を撮ったりせずまっすぐ歩けば淮海中路x思南路から歩いて10分足らずで着くことができるだろう。写真は思南路x香山路にある、孫中山故居=孫中山故居記念館への入り口。手前の灰色の建物は管理棟であり、服飾デザインの展示場である。バスの後ろに黒く見えているのが、孫中山故居である。写真の枠外右側には、孫文の生涯を数十枚の絵で示した展示がある。
 ちなみに、今年は孫文生誕140周年、来週の日曜日(11月12日)がその日である。
Img_2889 入ってすぐ「愛国主義教育基地」の掲示があり、




Img_2892 孫文の銅像が我々を出迎える。




Img_2887 写真が孫中山故居。8元の入場料を払い、写真右下の入り口から入る。
 この孫中山故居、孫文が日本から帰国後の1918年から1924年までここに住んでいたとのことで、内部は当時の様子を再現している。

Img_2881Img_2883 孫中山故居の内部。庭の芝生が出入り禁止だったり、細い通路からの撮影のためこのようなアングルに。





Img_2880 中庭。




 開館時間中の毎時0分と30分に館内ツアーがあり、館内を案内してくれる。中国語での説明と、英語テープによる説明がなされる。一緒にまわった人の中には、日本人観光客・ドイツ人?観光客・欧米系留学生とその友人の中国人・中国人観光客と思しき人たちがいた。ここは孫文が日本からの帰国後に住んだ居所とかで、家具の中に日本式のものがあると紹介されていた。館内の説明で「五族共和」など、懐かしい?かつて学んだ言葉が思い起こされた。
Img_2884 文革前から「国家重点文物保護単位」に指定されているようだ。




 気になっていた淮海中路小学との関係について、チケット売り場の人に聞いてみた。返ってきた答えは、「あちら(=淮海中路小学)は他の人が孫文に貸していたところで、孫文は短い間しか住んでいなかった。こちらが孫文の故居である」ということであった。なるほど。
 しかし、あちらにも「1918年~24年に居住」のレリーフがあるが・・・あれは「孫文が1918年~24年に上海に居住」ということか?あるいは住んでいなかったが何かに使っていた、ということか。

 孫中山故居のウェブサイトはこちら(中国語)。アドレスの一部がsunyatsenと、広東語なのがおもしろい。

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2006年10月23日星期一

雁湯路でカレーを食す

 淮海路散策の後、南北高架路の西側にある雁湯路へと足を向け、脇道にそれることにした。
Img_2825 雁湯路。歩行者天国のようになっているが、雨上がりのせいか人が少なかった。淮海中路との交差点に始まり、南昌路との交差点を経て復興公園に向かう200メートル程度の短い道路である。


Img_2826 ライトバンの後部を改造して営業しているジューススタンド。




Img_2833Img_2839 通りには様々なレストランがあり、建物の概観とあわせて洒落た雰囲気である。値段はローカル系より高めの店が多そうである。


Img_2840 南昌路との交差点にある、かつての中華職業教育社。今でもその関連の機関が入っており、その他ブライダル写真の店などが入っている。





Img_2834 この雁湯路に、「明治館」という名前のカレー屋がある。店の移り変わりが激しい上海では老舗の部類に入るようだ。



Img_2837 ここでカツカレーを食した。日本のカレー屋と変わらない味である。値段は29元とローカルな昼飯より高めであるが、これならいいだろう。

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淮海路を歩く(1)-4 思南路から南北高架路まで

 前回の続き。
 淮海中路小学を見ているうちに雨が降ってきて、次第に大降りになったのでしばし雨宿り。しかしひとときのことで雨は止んだので、再び淮海中路を東へ向かって散策することにした。
Img_2799 賑やかな淮海中路の裏には、昔ながらの建物が残っている建物がまだまだある。甲子園球場よろしく草が絡まったビルは、かつての泰山公寓。1930年できとのことで、今は研究所やそれに付属する生涯学習施設、旅館になっている(淮海中路622弄)。




Img_2802 雨上がりの淮海中路。




Img_2805 しばらく歩くと、華亭伊勢丹が見えてくる。日系デパートであり靴や洋服は結構高いのだが、日本語を話せる店員は殆どいない。1993年オープンとのことで、上海の外資系デパートとしてはやはり老舗のほう。南京西路x江寧路にも伊勢丹がある。




Img_2811Img_2813Img_2814 華亭伊勢丹は現代的な建物だが、その向かいにはやはり民国期の建物を使った社区がある。旧飛龍大楼という名前で、1922できとのこと。中は普通の社区のようだが、入り口にはローカル料理店や理髪店などがある。入り口には「持高旅館」(一瞬「特高旅館」などと物騒な名前に見えてしまった)の看板と、人民代表大会代表選びにまつわるスローガンが貼ってあった。
Img_2818 再び淮海中路のブランドショップを横に見て歩く。




Img_2829 「上海鐘表商店」という名の時計屋。いかにも上海を代表しているぞと自慢したげな門構えに見えた。



Img_2822 その向かいには旧楊氏公寓と、




Img_2823 上海市婦女用品商店が、雁湯路をはさんで建っている。いずれも民国期からの建物である。上海市婦女用品商店の向こうが南北高架路との交差点である。
 雁湯路でカレーが食べたくなったので、今回の淮海路散策はここまで、「その(2)」はそのうち。地下鉄の駅にして2駅足らずの散歩であった。
 こうして歩いてみると、淮海中路はかつてのフランス租界の雰囲気を今に残し、またその雰囲気を街並み作りに活用していると言えよう。また、表通りの裏にも民国期の建物を使った社区や施設が多数残っており、こちらも民国期の片鱗を感じさせてくれる。

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2006年10月22日星期日

淮海路を歩く(1)-3 孫文ゆかりの地?-淮海中路小学-

 前回の続き。
Img_2791 淮海路x思南路の交差点を過ぎてしばらくのところに、「淮海中路小学」の看板を発見。中へ入ってみると・・・






Img_2787 中には小さな、しかし個性を発揮している建物が建っていた。




Img_2795 建物にはレリーフが埋め込まれており、孫文が1918年~25年の間ここに住んでいたと記されている。1918年~24年といえば孫文の晩年、日本から帰国して、第1次国共合作をまとめ、病に倒れるまでの期間に当たる。そう書かれると、改めてこの建物を見ると民国期初期に思いが至り、ノスタルジックな気分になる。
 しかし、別に「孫中山故居」という場所がちょうどこの略真南、思南路x香山路にあり、そちらのほうが有名である(リンク先はWhenever上海より)。そことの関係は如何に?孫文に詳しい同学、教えてください(私も調べます)。
Img_2789 上の建物の写真右側から後ろ(つまり淮海路側)を振り返る。淮海路と小学校を遮っている建物をバックに「先生を敬い、規律を守り、勤勉であり、向上を目指そう」というところか。「尊師」という表現、以前大理の学校でも見かけたがやはりこれが本来の使い方だろう。

Img_2790 少し引いたところから撮影。手前にバスケットボールのコートがとれるスペースがあり、ゴールが前後2箇所に設置されているが、これが校庭の殆どである。コンクリート敷きであることを考えると、学校としてはちょっと寂しい。

 淮海路を歩いて思わず孫文に思いを馳せることができた。今更ながら孫文をもっと知りたいという気になったし、孫文の上海における歩みについても、この小学校と孫中山故居の関係も含めて学んでみたい。

(追記)孫中山故居にも行ってきました。その様子はこちら

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